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2014年6月2日月曜日

 
トーラーが宗教的聖典としての所以  

 
これ迄のキリスト教の中ではヘブライ語をよく勉強し理解しようとする宗派も多くありましたが、その宗派の神学に阻まれてヘブライ語上の一見矛盾に見える部分を某かの合理化をするに留まらざるを得なかったと思います。ところが私の考えるところ、神学に合わせて解釈するのではなく、トーラーの内的な構造の中に答えを求める事が抑も本筋ではないだろうかと言う事に思い至りました。トーラーはトーラーの中で問を発しトーラーの中で答えを引き取っているのではないかと思い至りました。それが聖典としての所以だろうと思います。
①確かに神の普通名詞として登場するのは「Elohim」という複数形(男性)ですが、これを主語にした動詞は単数です。これを説明する為に「尊厳の複数形は単数扱いである」との理屈を嘗てなされた時もありましたが、私に言わせればこの説明は胡麻化しです。一見説明した様に見えますが、何の主張にもなっていません。神は一人であると言うテーゼに収斂させるべく合理化が行なわれたと思えるのです。トーラーには正しい事がそのまま述べられている書ではない事をここでは先ず理解しなければならないと思います。ここに気がついてくれとトーラーは訴え、警告を発していると言うことを理解すべきです。その答えはトーラーの中を探す以外にありません。
②トーラー等(Tanach)はヘブライ人の歴史を織り混ぜながら、=民族史も通じて人の最善の生き方を求めた思索の書です。トーラーと言うのは古代中の古代に書かれたので、未だ抽象語彙も発達していなかったと見えて、どうやって最深、最奥部を伝え切るかに腐心したのですが、言葉そのものには依存する事へは頗る警戒した様です。言葉一語一語に依存する事は負担が大きすぎる事を見抜いていた節があります。ですから、どうしたかと言いますと、物語の語り方=修辞法に求めたのではないだろうかと思います。近・現代で言うところの修辞法とはかなり違います。①物語と物語の落差、②否定肯定関係、③連携、連合、④文法的作為等様々な方法で目的の表現を図ろうとした様です。特に「文法的作為」は後代に混乱を残すだろう事を厭わず、行なった様です。文法の問題は文法の中で解決出来る筈と考えたのかも知れません。文法的矛盾はそのまま表現手法であったと理解すべきなのです。文法的作為は表現行為そのものであったと言う所を理解すべきなのです。
ですから、先ず主張があり、それを実現する為に文法の柔軟適用を行なったのではないのかと言うのが私の考え方です。通常では摂らない表現ながら、それを踏み越えたのは古代のヘブライ人が特権的に出来た事であり、文法規範に拘束されたのは我々近・現代人であったのではないのかと言う事です。規範を超える事でより本質に近付ける効果を発揮し得たのだろうと思います。「Elohim」を単数動詞で受けるとは「諸El現象」を一つに纏めたいと言う主張を感じるのです。「El」の本義は力であったので、人が生きる源が「El」の本来の姿であって、様々な(一語では表し切れない力が発揮された)諸エピソードを通じてそれらの源泉を神の仕事の在り方に求めたのではないだろうかと読めたのです。
③トーラーの問題は神名に集中している様にみえます。と言うのは神名「Elohim」は複数形ですが、単純にimを取っては単数形「El」には戻れないのです。ohが残ってしまうのです。そこで言われている説は「Eloha」と言う案です。この説は再建形として辞書に載っているのですが、複数形の「Elohim」が資料的には先行してあったと言う事なのです。「Elohim」を元に「Eloha」を後から作ったと言う事です。
私はアブラハムの目的地がカナンだったのに何故、遡るノアの息子達セム、ハム、ヤペテのハムがその子孫のカナンの為に呪われよと言われている事に何か暗示させるものがあるのかと思っていましたが、今掘り下げる方法がありません。が、カナンの諸族をアブラハム族が吸収、糾合して行く上で、神の在り方を顕示する必要があったと推察します。カナンの神を如何に否定して行くかは、否定と同時に概念利用が必須だったのではないかと思います。カナン諸族の女神信仰を方向転換する為の方法として女神信仰を男神信仰に矯正した痕跡が「Elohim」だったのではないかと言う事です。「Elah+im」のahがアクセントを失い、ohとなるのはヘブライ語の中でカマツガドールとカマツカタンが同じ記号を使う事にも残っている現象ですので、それ程飛躍し過ぎた推論でもありません。
 

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