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2014年8月15日金曜日

「トーラー」の存在の仕方

「聖書」は正しく妥当な事が書かれているであろうと言う見方があろうかと思いますが、その様な前提で読み得るのは新約聖書と言われる書迄です。それでは旧約聖書は間違っているのか?と短絡的に反問する事は短絡的以上に軽率であると言うしかありません。新約聖書の読み方のまま旧約聖書を読むという事は絶対に出来ませんと申し上げます。旧約聖書の編集のされ方は少なくとも明らかに新約聖書とは違います。少なくとも正しく、妥当な事を書くという事が編集上の軸にはなっていないという事は感じられるのではないかと思います。それでは何が編集上の軸になっているでしょうか?それは様々な構造上の傍証があって理解出来るものです。書の中からは中々十分に引き出す事は困難です。だからと言って編集上の軸を観る事が全く出来ないという事ではありません。困難ではあるけれどその契機は注意すれば見つける事が出来ます。しかし、契機は意識して見つける事は相当困難です。何故なら人が既に頑なに出来上がっている観念と言う壁を突き崩す事無しに掴めないからです。トーラーはそれを見越していたのかどうか不明ながら、各所に躓きの石を配置していたのです。それを見逃すと平板な物語の連続でしかありません。躓きの石はさり気無く配置されているので見逃しやすいと思います。過去に何人かの人は気づいた事もありましたが、残念な事に折角の気づいた事を体裁良く合理化して無理矢理解った事にしてしまったのです。それらがキリスト教と言う運動体の肉付けに寄与したのでしょうか、誰も疑いを挟まない説明になっています。従ってユダヤ教が本来テーマにしていなかった方向に歩ませたのだろうと思います。私は既にクリスチャンではありませんので、キリスト教に対して発言は控えますが、非キリスト教の立場でさえ、同様の観念構造を持っている事に気が付き、この問題は普遍的に考えられると思い至りました。その構造的違いはユダヤ教との差に端的に表れていると思います。/……

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