מבנה

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2014年11月19日水曜日

信じる事ってどう言う行為?営為?

何故、神は信じたり信じなかったり出来るものなのだろうか?それ程アヤフヤなものなのだろうか?その程度の曖昧な概念だとしたら、神を信じる人に向かって信じない人が浴びせる批判は如何にも正当な事の様に思える。神が一つだろうと二つだろうと三つだろうとどれだけの意味があると言うのだろうか。こう言った問題に橋を掛けられなければ、こちら側の人は気狂いです、こちら側の人は正常と言って良いのでしょうか?信じる人に対して何故あなたは信じる形をとっているのでしょうかと尋ねたくなるのは何故でしょうか。どういうことかと言うと信じると言う事は曖昧な概念だからこそ信じる形をとっているのでしょうか?と聞きたくなります。古の人が神と言う言葉を使って何を考えたのかと言う風に考えなければ、この問題は解けないんじゃないでしょうか?
意地悪を言う様ですが、そう言う事になりますよ!しかし、トーラー(あなたの信じた旧約聖書の元の書物)にはあなたが信じようとしている神は描かれてませんよ!文字面だけ見てるんじゃなくて、トーラーの真の内部構造を見極めて、トーラー著述者の意識に触れる事でトーラーが本当に言わんとしている事を理解しようと思いませんか?何か不思議な、超越的な事が書かれているから真実だと言う事ではないのですよ!人間が生きて行く事を素直に見詰めて下さればトーラーの熱情的意味が解って来ますよ!人を先ず信じなければ神を信じるなど空虚の一言ですよ!私は岩を穿つ雨垂れでしかない事の自覚は持っている積もりです。しかし、雫でも甘く見ると大変な事になりますよ!岩は穿たれて細れ石となりますよ!それが自然の当然すぎる摂理です。

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