| 「行間を読む」という意味薄弱な言葉があったお陰で、文学作品をマトモな研究対象とする事は避けて、単に感性の共感部分に訴えて議論がヤっと出来ていたのが今迄のやり方だったのでしょう。ところが、聖書(トーラー)は宗教書であったお陰で何らかの主張が何処かに隠れている筈と言う前提を確信出来ていたので、どうやったら、どうしたら本当の主張を見つける事が出来るだろうかと客観的な探索について関心を移行させる事になったのです。もし、現代文学だったら作家の個性的な感性の在り処を単独に探し出せば良い筈です。ところが、聖書「トーラー」は本当のテーマは何かが全く解らない段階でどうしたら解ると言うのだろうか?と思っていたところ、聖書「トーラー」には矛盾だらけ、疑問だらけと言う事が解るだけで一歩も進めないでいたのです。成る程、「聖書トーラー」は様々解釈を許す素地があったと言うべきなのでしょう。 ある時、聖書「トーラー」の中の多くの物語が雑然と並ぶ姿を繰り返し読んでいるうちに、物語どうしの同質性と同時に異質性に気付き出した事です。トーラーは言葉よりは物語が重要な構成要素ではないのかと思う様になったのです。物語が一つの単位となって他の物語との差を際立たせていると言う構造に気付いて行きました。言葉で直接訴求すると言う方法をとらず、言葉によって構成された物語が比重を以って語ると言う方法を採用していると感じた訳です。そうして考えて行くと、確かに中には物語毎肯定的、或いは否定的な語り口、内容を持っているものがあり、物語の進行に従って訴求の方向が特定の方向に向いている事が解ります。或いは、比重を変え乍らも、同一範疇の事を語っていると言う事も見えて来るのです。 具体的には、先行する物語を下敷きにして後続の物語を読むと浮き彫りになって来る内容もあるのです。一例として、創世記の神の完璧で充実した仕事振りに対して三族長の生き方は同質的であり、アダムやエジプトのヘブライ人の生き方は相反するものと評価出来た事等です。創世記の神の方法を下敷きに出来ると言う事になります。又、神の創造とは言っても、人間の認識からはみ出る創造では一切なく、単なる人間の認識を追認しているに過ぎなく、丁度神の在り方でトーラー全体の構造が円環構造になっている事が解ります。トーラーは神話から始めていないと言う事実と符合する点でもあります。/…… |
מבנה
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2015年6月13日土曜日
| 181)構造に着眼した経緯 |
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