| トーラーは本来ユダヤ人のものだった筈ですが、いつの間にか汎用的な神学の根拠とされてしまいました。トーラーはキリスト教の創始者イエスも読んでいた書であって度々イエス自身が引用していたものです。イエスはそれなりに見識を持っていたとは思うけれど、 何処か読みきれないものを持っていたのではないかと思います。即ちトーラーでトレーニングすべきだったところを疑いを持たず実体化してそのままスルーしてしまってはいなかったでしょうか?イエスはドメスティックなユダヤ人だったのではないでしょうか?パリサイ派を批判したのが精一杯でトーラーから引き出したものは少なかったと感じてしまいます。多数のユダヤ人にとって、トーラーは闘いの書ではなかったでしょうか?同時代のラビ達と比べ、どうしても幼稚な思考が垣間見えるのです。神と言うのはこれ自体、実体ではなく物の喩えだった筈です。それを十分読み込んで発話しなければ当時のユダヤ人達に違和感を与えてしまうのは当然だったと言えます。神には神のテーマがあった筈なのですが、イエスは大きく解釈を変えたと思います。神の定義は確かに難しい問題であっただろうと思いますが、トーラーの訴えた神の定義は人の精一杯の生存に関する事であった筈なのに、イエスは大いに抽象的で精神論的定義に走ってしまったのではないかと思えてなりません。トーラーは親切な書き方はしていない代わり、注意して読めば問いと答えとは過不足なく配置されてある筈のものです。又、イエスには大変失礼ながら、奇跡を繰り返す或いは奇跡伝説を残しましたが、これは本来のユダヤ教には全く拘わりのない事です。確かにもーモーセの物語には奇跡が満載ではありますが、これは奇跡があったとか無かったとか言う問題ではなく、モーセと大衆との間には何があったかを暗示する注意喚起の為の仕掛けです。矢張りモーセと大衆との間には隔壁があったと見るしかありません。モーセと大衆の間に本来完全に共有出来るものがあったら奇跡なんか不要だったかも知れません。大衆を根こそぎ動かす為の仕掛けがどうしても必要だったかもしれないと言う事です。モーセの第一義的目的はカナンに上る事だった筈です。しかし、モーセはあらゆる方法を動員して大衆をカナンに上らせましたが溝が埋まる事は無かったかも知れませんモーセはカナン入域は果たせず、手前で死ぬ事になります。ヨシュアに指導者の地位を渡したのです。ほぼ達成はしたといえますが、モーセは宗教化の役目は果たしたのですが、モーセも含めて本質との触れ合う事はなく、神棚に祭り上げるだけであったと思わざるを得ません。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という表現はトーラーの中にはありますが、「モーセの神」と言う表現は何故かありません。神と言葉を交わしているのにも拘らずです。モーセは神の本質とは違うものと会話していた事になります。神と言葉を交わす事自体には神の本質に触れていないと言うべきでしょう。ここにトーラーの重要な神に対する考え方が現れています。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は彼らがより最善に生きる事績に対してそう呼ばれていますが、モーセは自分の生きるに関しての事ではなく同胞を導き出して宗教的体裁を作る事に腐心したという事ですから、トーラーの作者から見れば役が脇役だったとも言えます。トーラーはモーセ五書とも呼ばれますが、そのことは記事の内容と些かズレを感じさせるものがあります。トーラーのテーマが何処にあるのかを物語る処でもあります。即ち神学などと言う解釈は全く必要はない事になります。トーラーには問いも答も過不足なく書かれているからです。神学の入る隙間は一切ないと言うべきです。 |
מבנה
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2015年7月7日火曜日
| 192)神学と言う言葉が解りません |
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