| 新約聖書にとって旧約聖書はどの様な存在なのでしょうか?先ず、書の編集についてはどうでしょうか?新約聖書はユダヤ教が出来上がる途上ではありながら、トーラーの枠内での内向的(ドメスティック)に実体化した観念構造を持っているものと観る事が出来ると思います。ユダヤ教は個人の事績については努力工夫した事にしか関心が向いてなかった筈です。一人の人物の伝記の様なものを果たして残すものであろうかと疑問を持ちます。又、新約聖書は旧約聖書を否定する目的がある筈なのに否定すべき書を枕にしなければならない理由が如何程かあろうかとも思います。旧約聖書は人の能力をほぼ全面的に認め、自由に開花する立場であろうと思います。キリスト教ではよく旧約聖書にイエス出現の予知をしていると言いますが、何故そう云う理屈が成り立つのか解りません!旧約聖書の理屈を捻じ曲げて曲解した理屈で苦しんでいるのはクリスチャン自身であるように思います。クリスチャンは自分の首を絞めながら罪の赦しを乞うている喜劇の登場人物に見えます。トーラーにはもっと多くの学ぶべき点があると云うのにも拘わらずです。 |
מבנה
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2015年10月13日火曜日
| 279)新約聖書と旧約聖書を同時に持つ矛盾 |
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