| トーラーは罪悪には主要テーマとしてはいないのであるが、寧ろ、生き方の不十分さには言及しているのである。と言うとモーセの十戒があるではないかと、指摘されるであろう。しかしその様な倫理は長続きはしなかったのである。然も当のモーセ自身がカナンへの入域を果たせなかったのである。この事は十戒が実は限定的であった事を表してはいないだろうか。何れにしてもカナンでは本来は建設が目的の筈だったのであるから、倫理も古いままでは通用するとは限らなかったのである。十戒の石板は脆い存在だった事を象徴している物語と言う事なのである。モーセには既に「Ehyeh asher Ehyeh 」と伝えていたでは無かったのか?これは「YHVH」の元になった由来のものである。これは日本語にすると途端に骨抜きになる言葉である。これは単なる「二重のbe動詞」ではない。かなり積極的な建設「Let it be! and construct!」=「建設する」意味合いが強くなるのである。「有りてある者」とは何の事なのか?全く曖昧になってしまうのである。翻訳者はその前に書を吟味しておく必要があったのではないのか?或いは何か吟味出来ないバイアスを既に持っていたのではではないのかと疑わせる態度であり、見逃せないのである。何故モーセがかんを目にしながら亡くなった理由も推測出来ないだろうか?トーラーの作者はそこまで読み込んでいたのだろうか?周到な構想の基に出来上がっていると舌を巻くのである。 |
מבנה
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2016年2月28日日曜日
| 257)モーセの十戒の位置付けと明かされた神名とカナン |
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