| 「神」と言う概念定義は個々人によってマチマチであろうが、抑も「神」という現代の言葉は明治になってから従来日本語にあった語を転用、翻訳されたもので、翻訳に携わったメンバーの力学によっては「天守」になっていたかも知れない程の言葉である。定義が不十分なまま流通しているものを考察の対象にも出来ないだろう。しかし、トーラーはそれを見越したかの様に、シッカリと定義をしていたのではないだろうか?この定義によってユダヤの民は現実に目を背ける事なく「神」を見失う事は無かったのだろう! |
| トーラーは「神」の定義を二度更新していたのかも知れない。「Elohim」の時と「YHVH」の時である。 |
| モーセは神の名を尋ねて神からその名を聴いているが、その名は「Ehyeh asher Ehyehパアル態(基本態)((一人称未完了」であった。その後その名は誰からも呼ばれたと言う記事は出て来ない。その代わり「YHVH(yehaveh)ピエル態(強意態)三人称未完了」と言う形で、何と創世記冒頭から使われているのだ。推測するに、トーラーは継承の為に羊皮紙に書写する度に編集もあったのかと云う事が窺えるのである。「Ehyeh asher Ehyeh」パアル態即ちカル態即ち基本動詞一人称が重複した形になっている。パアル態の重複が何を表現しているのかは、日本語の翻訳聖書を読んだだけでは余計に解らなくなるほど混乱している。私は「有りて有る」から一旦離れてピエル態(三人称)へ意味が強調された「形造る、建設する」へと転換したのではなかったのか?と捉えている。三人称は神を呼称にする為である。いずれにしても「神」は一般的に既存的に存在はしないものである。定義して初めて存在する類なのである。トーラーの神はその様な捉え方でなければ、理解は不可能なのであろう。 |
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