מבנה

連絡先⬛︎graphico_ss@icloud.comへご質問がありましたらこちらにメールを下さい!療養中の身なれば固定電話は簡単には出られませんので。何卒、お許しください。

2016年10月11日火曜日

בראは奇妙な動詞である。この動詞は主語を「神」のみとする、意味を「create」と訳される。数年前にはオランダの考古学者(Ellen van Wolde)が「create」ではなく、「separate」であると提案したのだが、宗教界からは全く無視され、議論すら起きなかったのは何故なのか?特に日本に於いては。それは宗教側からは解答能力が最早ないと言うところまで来てしまっていることを意味しているのだろうか?残念である。議論の対象にすらならないほどトーラーは読み方を修復出来ないところまで迷い込んでしまったのだろう。迷路に迷い込んだのはキリスト教の責任が大きいのではないか?キリスト教はトーラーを学ぶ対象には最早していないという事なのか?正誤、善悪の基準にするだけである。それでは学ぶ事にはならないではないのか?
「create」でなければ一旦離れて考える事もしてみても良いのである。それはオランダ人の考古学者の成果に飛び付いても良いのだが「בר」がアラム語で息子を表す事も含めて考えて 、敢えて考えてみれば、子孫は分かれた存在である。矢張りオランダ人考古学者の言うように「分ける」という意味なのか、寧ろ「創造」に至る直前の作業を捉えて言っているのでは ないだろうかと思い至るのである。何故なら「BR」はセム語の共通の語義として「木を切り出す」と言った意味もあるといわれることを考えるとここは「分析」と訳される事が適切に思うのである。従って、「まず、した事は分析乃至、素材を切り出したとすべきだろうか?
いずれにしてもこの語はテーマに最も近い所にあるのだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿