| 或る元聖職者が感動的な体験を述べて「矢張り神様っているんですね!」と締めくくった。元聖職者からして神が居ると言わなければならないのはどう言うことなんだろうか?神の外在性を語ると言う事である。人の存在の外に存在人世の体験の中に感動的な場面は大いにあろうかと思うが、それが神の存在を証明する事だったとは!この方にとって神の存在は職業的にこの方にとって神の外在性を証明する必要があったのだろうかと、そのような目的がはっきりしていたからなのか。私は日本の宗教的環境には外在的な神が必要なのかとも思ったのである。宗教がその様に成立っているのは不幸だと言う風に思わざるを得ないのである。人の幸不幸の在りようはもっと知らなければならないのではないかと思うのである。トーラーはハッキリと人の不幸の在り方に警戒感を持っているのである。安易に神の存在を肯定する程、大衆は未だ自立していないのである。一度でもトーラー旧約聖書を読んだことがあるのなら、矢張り警戒感の在り方を学んで欲しかったと思うのである。神は外在的に存在するとはどう言うことか自己の切実な生存が語られているのかと言うことに尽きるのである。神は内在化して切実な生存に自問自答を繰り返して懸命に生きるを生きなければならないのではないか?トーラーは神が居るとか居ないとかの問題は一切ないのである。神の存在を問題にする間に切実に一人の一人が先に考えなければならないことは自分が如何に生きるかと言う事であろう。私が言いたい事はトーラー旧約聖書をトコトン読んで、出来ればヘブライ語で読んで実際にトーラーがどう言う書き方、主張をしているか,何が書かれているかを確かめて欲しいと言う事である。特に創世記にどう言う世界観で描かれているか、予断無く受け止めて欲しいと言う事である。予断無くとは疑っていない事にも疑いの目を持つと言う事である。疑っていない事にもと言う事は先入観を気が付き次第、さっさと捨てるという事です。本当にトーラーが言っている事だけ受け止め、味わって欲しいのである。 |
מבנה
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2016年12月28日水曜日
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