| 同床異夢ユダヤ教とキリスト教は似て非なるものです。私に採ってキリスト教は世界観が非常に窮屈に感じます。何故なら人間を罪びとと定義しているからです。たぶん、エデンの園のエピソードを読み違えたのでしょう。ユダヤ教はハッキリと解放の論理を演繹出来ます。解放の論理の他に人の自由な生存形態を認めている様に感じます。トーラーを読んでそういう事が解るのですから現実のユダヤ人の生き方をみると益々そう感じるのです。何故キリスト教は旧約聖書を新約聖書の前史の様にみるのでしょうか?理由は薄々解ります。まるっきりトーラーの事が解って無いのです。所謂誤読です。トーラーの言っている事をふ〜んと聞き流して自らの課題として読めてないからです。トーラーは脳のトレーニングを我々銘々に問題として突き付けているのに、キリスト教徒は答が用意されるのを未だかと待っているのです。自分から取りに行かないのです。教団が答を握り潰しているからでしょう。トーラーに問う事をしないで外の評価が気になってるからでしょう。その様にはトーラーは言ってないのです。トーラーは読み手の行動に結実してはじめて理解出来る様になっているから読みっ放しでは絶対に解らない様になっているのです。さて、ユダヤ教のラビ達は日頃何をしてるのでしょうか?同胞が、トーラーを忘れる事がない様な工夫を色々あれこれ考えているのでしょうね! 人間の生存域を観てください!能くもこんな所になぁと感心してしまう民族も居ますよね?そんな民族に対して罪びとの論理が能く通じますねえ!生きるのに必死な人達に向かって罪びとと言って何を覚醒せよ!と言うんだろう?人類は十分「地に満ち」たと言えるでしょう。 |
מבנה
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2017年2月20日月曜日
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