| 私 もご多分に漏れず子供の頃から二十歳前迄クリスチャンだった。ローマカトリックだった。子供ながらに何処となく虚栄心も権威に縋る気持ちも働いていたかも知れない。そんな馬鹿馬鹿しい世界から綺麗サッパリ抜け出した。二十歳になる前に。毎週の告解もしなくてよくなってサバサバした。これもかなり負担だった。何も罪を犯したつもりもなく自分の中を粗探しするのである。告解の制度位下らないものはない。人間を罪人に縛り付けておく装置だったからである。この告解制度への疑問が切っ掛けとなってキリスト教への疑問が拡大して行った。カトリックによる奇跡認定も下らない。聖人、福者認定も下らない。となり、その後、旧約聖書=トーラーの理解をヘブライ語から勉強する事の機会を得られた事によって、自由に読む事が出来るようになった。真剣に読んだ結果、トーラーの真髄に触れられたと思える様になったはずである。何故この様な自信を持って言えるのか?それはトーラーが持っている言葉以外の動かし難い構造を発見したからに他ならない。いつ迄もキリスト教に関わってはいられないと思ったものである。 |
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