| 宗教はいつの時代でもそうなのだろうか?苛烈な太古の宗教改革の波を掻い潜って来てる様なのだ。それはユダヤ教とて同じ事だったのではないだろうか?どこでそれが解るだろうか?太古の宗教改革はそれ迄の否定を込めている筈ですから文書的には従来の表現を生かさず殺さずの編集をしながらどのようにか新たな主張をしようかと編者は工夫してる筈でしょう。 その代表的な例として神名があります。神名はElohimやYHVH等いくつかの言い方で表れて特にElohimとYHVHは文法指標の数が一致しない等の錯綜があります。何故そうなのかは謎としか言いようがなないのですが、ひとつの推論としてトーラーの存在意義から考えて、これに合理的な説明をする事は狭い解釈に押込めかねないと考えます。即ち、Elohimと云う複数形は尊厳の複数だ等の説明はヨーロッパの言語事情を説明するために提出された概念で単なる思いつきと言うしかありません。ヨーロッパでは確かに王たる者が一人称単数形で言うべきところを一人称複数形を使用する場合があります。しかし、動機が全く違う現象を繋ぎ合わせても何の説明にもなりません。 日本でのユダヤ教研究はキリスト教の立場からの研究が殆んどで、ユダヤ教の究極の理解を示した研究は全くないと言って良い状況です。一見ユダヤ教に理解を示してるように見えている研究も単なる知識の羅列でしかありませんし、本質と連なった記述は皆無と言って良い位です。また、ユダヤ教に対して好意的に見えるものでもキリスト教的思考形式を崩せずにいるため、遥かに本質的理解が届かないのが実情です。 日本には当然ながらユダヤ教との接触もありませんでしたし、その存在をキリスト教を間に置いての間接的知識しかないので、本質理解のためには不幸で貧弱な経験と視点しか揃っていないのです。ところが、更に厄介な媒介物が日本の中からだけではなく近年ユダヤ本国イスラエルの中からキリスト教擬似的ネットワークが蔓延り出して、恰もユダヤ教の如き振る舞いをし、視野、視点の汚濁をさせて、本質理解への妨害を行なっています。見掛けだけはユダヤ教の様に振る舞っています。トーラーはユダヤ教の中からしか理解が及びません。ですから、これを日本語で客観記述しようとすれば一旦、自己定義的になるかも知れませんが、やむを得ない方法であると言うしかありません。「何故山に登るか?」「それは、山がそこにあるから!」です。それから、唯一神と言う抜き難く居座った観念にも、疑いを持った方が良いのだと言う事も考慮すべき事なのです。 |
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2012年11月21日水曜日
| 18)太 古の宗教改革時の編集痕だったのでは無いか? |
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