| キリスト教の立場では神名が固有名詞だったり、複数形だったりすることを何とか合理的に説明を試みようとして悉く失敗しています。神の概念に抜き難い観念に囚われていることによって、即ち、神は一人(唯一)だという観念に拘束されていることによって、Elohimは複数形だけど神だから尊厳の複数形なのだという珍妙な説明を行なって平気な顔をしていられるのです。尊厳の複数なる概念はヨーロッパ印欧語の言語事情を説明した概念にしか過ぎません。滑稽と云うしかありません。文書仮説では資料ルーツは説明するが、その必然性については全く触れようとしません。そうでしょう。視点のないところに説明は存在しません。やれたことといえば、各資料ごちゃ混ぜ説です。これじゃあ、聖書は赤ん坊に羊皮紙を千切らせてグチャグチャに混ぜて貼り合わせたとでも言えば話しが早いじゃないですか。ヘブライズムの神だって確かに一人(唯一)ではあるけれど、こちらは選択的契約的なのに対して、キリスト教の神は先験的契約的な神である点が大きく違います。どう云うことかといいますと、選択的とは別々に登場した神々をひとつの神として編み合わせた存在と契約を結ぶと云うことに対して、先験的とは神は既にこの世の前から存在しこの絶対的存在との契約を結ぶと云うものです。トーラーでは決して両義的には書いておらず、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神のように各人に現れた神はモーセに名を明かしながら同一のものであると明言しています。一貫した存在だと言っているのです。 キリスト教ではこの辺の事情をすっかり飛ばして読んでしまっていますね。或いは目をつぶっているかです。こう云うことはやはり大事なので、見逃してはいけないところだと思います。各人に現れた神はどう云うことをしたか、何を言ったかを良くみれば神の性格が良く分かると思います。神の概念を拡大解釈し出すとキリがありません。ヘブライズムではどう区切ったかを注意して理解しなければならないと思います。 |
מבנה
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2012年11月21日水曜日
| 19)文 書仮説の前提が抑も変ではないでしょうか? |
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