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2012年12月9日日曜日

33)トーラーの構造に着目する理由

聖書は無謬であるという無謀な思い込みに依存して、聖書の語句をズタズタに分断、切り裂き、言葉を味わう等と称して各々を鵜呑みにする御仁々がいらっしゃるようですね。そう理解してるのは私の偏見でしょうか。確かに新約聖書の場合は編集の方針があるのでしょうか、断片にしても良いように出来ているのかも知れません。が、旧約聖書(トーラー)はそうは行きません。何故なら、トーラーは古代の様々な思想、経験の積み重ねである故、編集方針が、歴史的事実も空想も民族伝承も様々織り交ぜながら、専ら宗教的主張=信仰軸に基づいて編集されていると思われるので、古層では宗教的編集方針には合っているが、個別にはアナクロニズムと言うしかない部分も矢張りある訳です。そして、構造と云う遠隔の記事の関連性を以って活性化している概念があり、そこに意味をなしているという事実があるという事にに依っている為です。
このブログでの論の主眼は構造も表現の一部であると言う点にあります。トーラーを分断して各個別に扱うことは大変危険な行為になると言うことです。危険という事は見落とし見逃しが発生するということです。構造は単なる論文的な論理的な文章とは違い、表現の意味、主旨に深く触れていると云うことを言っています。その構造を抜きにはトーラー全体を語る事は出来ません。構造とは非言語的概念とも言って良いものです。概念の総てが言語化されてるとは限らないのです。その非言語の部分に限って表現の中心がある場合もあると考えても良い位です。
それでは、何故、態々見えない部分を取り上げて議論しなければならないのでしょうか?文字に書いてない事だからそんな事を取り上げる事は無いでは無いかと思われるかも知れません。しかし、古代人の意識を探る事も必要です。どのような所をみていけば、その痕跡に触れる事が出来るでしょうか。それは古代人の書き方の揺らぎを感じ取る事から始まります。古代人の感じ方には言葉に言い尽くせないほどの迸り溢れ出るものがあったようです。それらを十分言語化するに至らなかった部分があり、手を変え品を変え工夫した痕跡があちこちに垣間見る事が出来ます。その最初に見えた部分が神名の不思議な二重性だったのです。この部分をシッカリ見据えておかなければ他の記述が生きる事は出来ない仕掛けとなっていたのです。まず、神名の二重性というのはYudHeyVavHeyとElohimの並記として度々登場している事実があるということです。これを説明する方法として、資料仮説というものがあるということを知ったのですが、論文を直接知らないので間接的に知るのみですが、これに納得できるような気には全くなれなかったのです。また、Elohimについては尊厳の複数なる説明もあることを知りましたが、これには私は拒否反応しか覚えませんでした。理由は上手くは説明出来ませんが胡散くさいの一言で済むような感覚でしたが、冷静に整理してみれば、ヨーロッパの言語事情を説明した概念の流用に過ぎないではないかという一言で十分と考えるに至りました。ヘブライ語に強引に当てはめようと言う理屈が見付からないのです。その答えはユダヤ教の本質に関わることだったのです。Elohimは語形の通り男性複数形で間違いは無かったのです。それでは、何故神名を主語にする後続の動詞bara'は三人称単数なのか。答えはElohey Avraham Elohey yizchak vElohey Ya'akov /続く。前稿もご覧ください。

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