ユダヤ教は抑も他の周辺宗教に比べ想像以上の隘路を通過していたのだろう。だから、周辺宗教に比べて同質の化粧はありながらも、異質さを維持しなければならない宿命にあったとも言える。微妙とも言える差を残すにはどう言う工夫が必要であっただろうかと言うことを考察する事がトーラー理解に当たって必要だろうと考えます。 トーラーは確かに宗教書ではあるけれど、くそ真面目に読ませようとは書かれてはいません。読み手が一工夫も二工夫もし考えなければならない事が沢山あり、また、トーラー自身に多くの仕掛けが潜んでいるので、読み手を陥れようとかは仕組まれている訳ではないものの、一番気付いて欲しいところに限っては落し穴が仕掛けられているのです。だから読み手の気付きがどうしても必要にできているのです。仕掛けにまんまと引っ掛かると、問われるのは常に読み手のスタンスです。ですから読み手の変化を求められていると言っても良い訳です。先入観を如何に自ら崩せるかに読み手の質が問われる訳です。トーラーは一番注目して欲しいところに仕掛けを作っているので即ちそこで躓けと言ってるようなものですから、少しでも疑問を感じたらそこで問いを発しても良いと言う風に出来ています。余りやっちゃいけないことはクソ真面目に書いてある通りに疑問を感じないままに通りすぎることです。 それではユダヤ教が個性を出す場面はどのような部分であっただろうかを考えます。それはヘブライ人の神名と言うことに端的に表れています。/続
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