| 個人的な感想になって恐縮なのですが、「宗教自体が」と言うか、「宗教的な人が」「宗教的でない人も」しばしば架空の概念、言葉を使用しているのを見聞します。言葉とはその様な使われ方もするのかも知れないと言うことかも知れませんが、宗教毎に独自の概念空間を造形しているからかも知れません。各々の宗教がドメスティックな言葉を発して、それで良しとしている事です。私が率直に不思議と思うのは、ドメスティックな言葉で架空のまゝで良いのですか?と言う事です。宗教が救済の為であるとすれば架空に救済されるだけで良いのでしょうか?と言う事です。私は救済とは事実として救済が果たされなくては意味を成さないと考えるのです。従って架空の言辞を幾ら投げ掛けても現実は何ら変化しないと心得るべきなのです。架空の言辞を投げ掛けただけで終るならこんな楽な事はありません。トーラーの主張は人がどの様に向きを変えて変化すれば救済を果たされるかを明確に指針しています。しかし、一歩読み違えると迷路に入り込む仕掛けにもなっていました。トーラー自体に問題はありませんでしたが、問題はこちら=人の方にあったのです。/続く |
מבנה
連絡先⬛︎graphico_ss@icloud.comへご質問がありましたらこちらにメールを下さい!療養中の身なれば固定電話は簡単には出られませんので。何卒、お許しください。
2013年8月26日月曜日
| 言葉の力に託す人の内面と外面 |
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿