先ず気が付いておかなければならない事は、言葉は時代の波に寄せては返される木の葉の如きものだと言う事です。一つの言葉で、一つのフレーズで古代から現代に至る迄全く同じ意味を維持できている訳がないのです。増してや、外国において複数の時代に翻弄され尽くされた思想をたった一回の翻訳を鵜呑みにする事は、不注意の極みです。翻訳が的確適切とは言い難い場合もあるので、早い話文字面だけ追って解った積もりは大変迂闊です。では、どうするか?文字に書かれてない部分、則ち行間を読むと言う事になる訳です。この様に言うとムカつく人が必ず居るでしょう。行間と言っても書いてないものをどうやって読むんだ!とお叱りを受けるでしょうね!字面だけ追いかけていては解らない事もあると思います。行間を読むとは、字面だけではない論理の部分を感じ取ろうと言う事なのです。トーラーにも直接の表現とはならないながら論理、理屈が隠れ持っており、其れを穿り返して感じ取ろうとしても良いのではないかと思う次第です。/続く
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私は、キリスト教で言う所の旧約聖書=ユダヤ教トーラーは読みますが、もはやクリスチャンではありませんので、自由な視点を建ててものを述べていきたいとおもいます。どうか、悪しからず!聖書とトーラーとは全く同じではありませんが、日本人にとってはほぼ同じと思って貰って構いませんが、原文のヘブライ語から直接翻訳した日本語聖書は少ないのです。実際にはヨーロッパ語=ドイツ語、英語に訳されたものを経由して日本語訳が出来ている場合もあるので、ヘブライ語を学習する事は有益であると思います。又、新約聖書と旧約聖書=トーラーとは編集方針が全く違います。新約聖書の読み方の延長で旧約聖書を読む事はほぼ違うジャンルの書物を読むに等しいと言って良いと考えます。大雑把に言えば片方はドメスチックな実用書であるのに対して、片方は脳トレーニングの為の書であると言えると思います。新約聖書が実用書とすれば、旧約聖書が脳トレです。
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行間を読むと言ってもどうして良いか解りません!文字通りに行と行の間を透かして見ますか?冗談!矢張り、そこは何も書いてませんよ! では、どうします?そこで、トーラーは様々な物語りで構成されていますが、其々の物語りは比較的独立していて区切りが付けられます。其々の物語りの特徴を分析すると、共通のテーマもあり、可成異質な面もあり、テーマとしては共通なんだけれど落差が大きい等の観察結果が得られると思います。感じ方は人其々でしょう。しかし、物語りの特徴は観察できる筈です。こう言う掴み方は書いてある事を読むと言う事とは離れており自らの感性との応答になる訳ですから、文字面だけを追うだけと言う行為とは違う訳です。行間を読むとは自らの感性との応答を通して読むと言う事になると思います。
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