מבנה

連絡先⬛︎graphico_ss@icloud.comへご質問がありましたらこちらにメールを下さい!療養中の身なれば固定電話は簡単には出られませんので。何卒、お許しください。

2015年2月5日木曜日

178)神は存在するかと云う答の無い問いと「神の定義」

よく、神の存在を信じると云う言い方がありますが、もう一つ、神なんていないから信じないと云う言い方もあります。この二つはある意味で全く同じ構造をしています。正反対のことを言おうとしているようで神と云う言葉の定義をしていないと云う意味で等価です。定義していないと言いましたが、把握していないと言った方が的確かもしれません。定義されないものを有るとか無いとか言っても無意味です。しかし、神はこう云うものだと定義すると話が変わってきます。神とは最も人にとって大切な事だとは言っても定義自体は其々各人、各グループの自由ですからご自分の選択した定義の神は存在すると言って良いでしょうし、また定義に関与していない神は存在しないとも言えますから、神は存在するかと云う問いは、客観的には答の無い問いと言って良いでしょう。ところが、この難題を逆手に取ったのがトーラーを書き残したユダヤの先人の知恵の中にはあったと考えて良いでしょう。またこの構造を知っておくと「トーラー」の神に肉薄することが可能となる筈です。 今bereshit創世記ですが、次のshemot出エジプト記で可成明らかになる筈です。bereshitでは先行的に現れますが、shemotで解がはっきり提示神は女神であった事とされます。bereshitで準備されていた事がshemotで宗教的な結実となると言って良いと思います。
特に日本語使用者の中には神に「様」を付けてより擬人化を進めています。これは世界的には 珍しい事ではないでしょうか?日本の在来の神に引きつけて理解しようとする通俗的世俗的把握の表れであろうと思います。日本語の中ではこれ程擬人化して宗教主催者が考えていたのでしょうか?「神様」という通俗的世俗的呼称が何か本質的部分を妨げてはいなかったでしょうか?この事には宗教主催者が更に加担している節があります。日本語使用者の特殊事情と言えるでしょうか。何れにしても宗教は何らかの力学で変容して行く事を我々は目撃しているのだと感じます。
実際ユダヤ教の成立時に如何なる事をしたかと言えば、神が居るいないの論争は回避して居ると言う事にし乍ら神の定義を厳密にしたのです。元々地の神は女神だった所にアブラハム族の男性原理の神が被さって来たのでかなり混乱があった様です。ですから神の名前がElohimという所属不明な形になってしまいました。
私にとってトーラーとは人が懸命に生きる姿の描写の書なので「神」はトーラーに散りばめられた「喩」の一つに過ぎません。トーラーの中では明かしていませんが、神の概念の由来は暗示しています。即ち「神」は人が最善の生き方の方法として「知恵」と「好運」と「強い意思」の源泉の事を差指した事が解ります。その様な概念を人格化したものが「神様」と言えばそうだと言う事も言えますが、過剰に人格化した神をイメージするのは個人的には好みではありません。
「喩」がダメだとは言ってる訳ではないのです。喩は描写に優れているので役割は持っているのですが、飽くまで喩ですから実体的な役割ではなく、期限が来たら役目が終わらなければならないものです。喩は喩であったと終了の宣言をすべき乃至書庫に収納すべきものです。喩は喩の限界を知らなければいつまで経っても実体面していても混乱を残すだけです。或いは喩である事をバラし説明をすべきでは無いでしょうか?まあ、そんな勇気のある宗教主催者もいないのでしょう!
「全能の神」なんて事を言いますが、この手の定義は私はかなり胡散臭く感じます。神を定義するのにこれはやり過ぎだと思ってしまうのです。ヘブライ語で「Shaddayシャダイ」と言ってるのは人の営為が求めている事は豊かさである事を女性の乳房「Shad」で形容したものに過ぎません。=「十分な乳房」男性にとっては嬉しい形容と言えますが。それ程抽象的な表現ではなかったのですが、何時から全能という翻訳になったのでしょうか?神を出来るだけ高く祭り上げようとする心理が働いたのでしょうか!

0 件のコメント:

コメントを投稿