| 人間に批判精神が無くなったら、成長は無かっただろうし、今後も成長はあり得ません。トーラーも例外では無かった事が見てとれます。トーラーにおいては神名にその痕跡があります。トーラーは批判精神が根幹にあり他の神観を否定して成り立っていますが、トーラーが成立してから時間が非常に経っている為、批判精神を内包している事すら忘れてしまう事が、トーラーを基礎に成り立っている民の内部に於いて起こっているとすればトーラーの維持は本来の力を失ったり変質したりするでしょう。宗教は批判精神の伝承にも貢献していたでしょうが、逆の働きもしていたかも知れません。 キリスト教とイスラム教はユダヤ教から派生したのだと良くいわれますが、その派生のあり方はユダヤ教の中心部分から派生したというより極表面的な言辞を真似ただけではないかと思わせるような言葉に溢れています。ユダヤ教以上に言辞の実体化が行なわれており、ユダヤ教の時点では喩として生きていた言辞が実体化して語られる事が多くなったと言えます。ですからキリスト教の側からユダヤ教を見るとこの二者の違いが把握できないと言う現象も起きることになります。キリスト教の前にあった古い宗教でユダヤ人はその古い宗教にしがみ付いている脱皮できない人達だと思うのが精一杯の理解の仕方なのでしょう。 ところが、ユダヤ教とキリスト教とはトーラーの読み方が根本的に違っているのです。世界の捉え方が違っていた為ユダヤ人は人の営為が抑も自由であり新しい発見、発明が人の営為の延長なので世界は広大であり、すべき事が無限にあるという事なのですが、キリスト教では世界は神が作り終えたものだからその神の摂理に敬意を払い、人は罪の子なので、悔い改めをしなければならない存在であるという事です。どちらに可能性があるでしょうか?そういう意味ではイスラム教は習俗はユダヤ教から多くを取り入れてはいますが、中身はキリスト教によく似ています。 |
מבנה
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2015年3月14日土曜日
| 202)トーラーの批判精神とその崩壊 |
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