מבנה

連絡先⬛︎graphico_ss@icloud.comへご質問がありましたらこちらにメールを下さい!療養中の身なれば固定電話は簡単には出られませんので。何卒、お許しください。

2015年4月24日金曜日

231)偏見の訂正を行なうと言う事

偏見と言うものを個人の中から払拭するには非常に時間が掛かります。殆んど偏見を払拭する事はその個人に取って必要性も感じる事では無いので、何の罪悪感も湧いてい来ないからです。偏見はお人好しの弱い善人の心に住み着き易いものです。しかし、偏見から解放される為には必ず個人の内的葛藤を通らなくてはならないので、知的にタフで無ければなりません。この道が結構、隘路になっています。逆に知的な経験が邪魔をして行く手を阻む事だってあります。偏見から抜け出す切っ掛けは恥の気持ちがあるかと言う事と偏見の対象の立場に立って考えられるかと言う想像力の豊かさを持てるかに掛かっているのです。相手に罪を犯したと真に認める事が出来るかにも掛かってくる事です。
また、直接相手に陳謝する事が却って相手を傷つける事になるのであればそれは控えて、同類の偏見を止める様に働きかける道もあると思いますので、特に影響力のある人は早速気が付いた傍から偏見を中止する事を明らかにして、隄の穴の一つでも塞ぐ役を担わなければならないのではないでしょうか?
偏見が何らかの問題を孕むのは、擬似的であれ日本が市民社会を実現しつつあるからだろうと思います。トーラー的考えの一つには社会生活において情報が如何に扱われるかと言う事に突き当たると思います。擬似的市民社会は大衆消費社会でもあるので、大衆は附和雷同的操作の対象であるので確たる根拠のある情報に基くものでなくても、動かし得ると言う事です。操作し得ると言う事です。と言う事は、影響力を持つ人格はそれなりの自覚も必要だと言う事になります。

0 件のコメント:

コメントを投稿