מבנה

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2015年5月26日火曜日

170)トーラー。己が生きる事についての檄文!

  
トーラーは一生懸命に生きている人間への応援歌であると言っても良いと思います。トーラーは人間の営為を追認して応援していると言って良いと思います。そう受け止めれば、無理な精神的信仰行為を受け入れて転倒した価値観に悩まなくても済むのです。即ち「神は本当に居るのだろうか?」等の愚問から抜け出すことが出来るのです。人が生きるとは、十分に知恵を発揮し、強い意思を以ってよく現実を分析し、自分に引きつけて、自分の満足の行く仕事をし、充足した人生を送ると言う極当たり前の考え方をするだけなのです。この世界をだれが創ったのかと言う回りくどい事を考える必要もないのです。従って、創造主を信じる事が目的でも何でも無くなります。生きている当事者はこの私ですから、込み入った理屈を覚える事ではありません。込み入った理屈を創ったのは何処かの教団の極一部の人間の小賢しい脳味噌です。そう言う理屈を覚える事が救済でも何でもありません!貴方が貴女が一生懸命に生きる事です。他人の組み立てた言葉ではありません!
ところが、トーラーに神と言う言葉が出てくるじゃないですか?!と言われるでしょう。しかし、それは翻訳の問題です。乃至は表現の問題だっただけです。どう言う事かと言うと「神」の翻訳前の言葉はシフト過程の言葉であったと言う事です。原義が十分変化し切れていなかった可能性があったのです。即ち使用されている単語は「Elohim」ですが、「El」は「力」の意味ですが、「oh」が由来不明の部分です。「im」は男性複数形の指標です。「oh」については私案があります。女神の痕跡です。過去の女神「Elah」の痕跡です。「ah」が「oh」になった理由は「im」の為にアクセントの移動が生じた結果と考えています。「カマツガドール」が「カツカタン」になったと考えて良いかと思います。女神と「im」は一見矛盾しますが、宗教改革の痕跡ではないかと考えています。カナンの抑もの神は女神だったものを男性原理の宗教が被さったものと見ています。神の変容があったと見ている訳です。過去の神の概念と同時に、日本語に翻訳された時の事情も併せて理解しておくべきです。明治初期のキリスト教が宣教された時の聖書の翻訳には日本語に適切な言葉がなかった為、「神」派と「天主」派に分かれて論争し、「神」派が勝ったに過ぎないのです。未だに「神」に違和感を持つ向きもあると思われます。大和言葉の「カミ」は本来世界の主宰者の様なイメージは無く、岩に宿る聖霊の様なイメージだった筈なのです。「神」では酷く格下げに感じた日本人も居た様です。その様な意味で「神」の概念は不安定なものであったのです。トーラーは様々な物語り、概念、言葉を動員した宗教的主張なのです。中には未確定な概念も混ざっている事もあります。/……
もし、日本人の子弟が家庭や教会で聖書教育をされた上に学校で科学に基づく教育をされたらこんな不幸な事はありません!聖書には一定の距離を置いて目的を別途教えなければ子供達には余計な負担を強いる事になります。中でも原理主義的な聖書教育をされたら、子供達の精神的な負担は計り知れません。長じて尚神の存在に葛藤したりの様は滑稽と言うしかありません!宗教主宰者は早急に自分達の依って立つところのものを研究的態度に改めなければ不幸な子供達を生み出し続ける事になります。人はロボットでは無いのです。宗教主宰者が思い描いた通りにも成らないし環境の狭間で苦しむのは子供達である事を忘れてはならないと思います。
  

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