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2015年5月2日土曜日

237)トーラーを守るのは生み出した古代ヘブライ人ユダヤ人自身の責任ではないでしょうか?

 
今トーラーを守っているのはユダヤ人全体で行なっているのですが、決して否定する訳ではありませんが、キリスト教が旧約聖書としてトーラーを守っている様に見えるのは、新約聖書の正当性維持の為に利用しているのではないだろうかと思えてなりません。新約聖書の表現方法とトーラーのそれとはあまりにも違い過ぎます。キリスト教は一つの解釈である事は認めますが、トーラーが真に伝えたかった事とは明らかに違うと言って良いと思います。新約聖書はトーラーの警告にはとても鈍感なところがあります。どうしてなんでしょうか?全体に安易なんです。警戒心がとても薄いと言えます。私の誤解でしょうか?生存の為の貪欲さが何処か欠けているのです。その欠落感は「信仰」と言う言葉によく表れています。切実さが感じられないのです。私はこの答えは「生存」と言う裏付けの浅さにあるのではないだろうかと憂慮します。信仰とは精神を売り渡す事に見えます。そこには個性の入り込む隙はありません。本当に問う主体は自分と言う個性なのに、自分の能力を問う事は全くしないに等しいのです。トーラーはその逆だった筈なのです。偶像崇拝の禁止はそう言う意味もあった筈です。架空の像は作り物の像と同じ事である訳です。ですから信仰とはトーラーを生み出した古代ヘブライ人にとって既に偶像崇拝と同様の事であった筈です。この様に、偶像崇拝と言う概念は演繹的に考えられる問題も含まれます。真に人間にとって力とは何なのかを古代ヘブライ人は考えて主張したのだと言う事だったのです。キリスト教はそう言う事にはユダヤ人出自のイエスの作品ではありましたが、警戒を疎かにしたと言えないでしょうか?/(未完)
 

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