מבנה

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2015年5月28日木曜日

 
173)トーラーと「自立思想」

 
私は再三「自立」という事に言及し、自立の側からトーラーを理解しようと努めて来ました。トーラーはこれ迄旧約聖書(OldTestament)として歪曲されて解釈されて来ましたので、トンデモナイ「神と人間の主従関係」を語るものとされて来たのではないでしょうか?それは全くの誤読でしかないと思います。「神の愛」なる概念が優先されて来て、この上下関係はそのまま権力に利用されて民を支配する理屈になったのでした。人間は罪深い存在であるなどと言われのない理屈をなすりつけられて。何処からそんな屁理屈を持って来たのでしょうか?確かにアダムは優柔不断で言われるがままの態度を採ったと描写され、意思の弱さを晒しました。罪と言うより駄目男だったとしか言い様がありません。だからこそ、アダムの態度は主体性のない、従属的だったと言う意味での浮彫りになっていると思います。神がアダムを「生きるものとした」のは神の仕事の在り方を吹き入れたと捉える事を見落としてはならなかったと思います。それでは、何故アダムはこの長編の二番手として登場したのでしょうか?それはアダムの後に作られた筈のイブに主導権を奪われてしまったチョイ役の狂言回しに仕立てられたと言えるのだと思います。アダムはヘブライ人以上に必要な役だったと言えます。こうして、神の最初の仕事に次ぐアダムの弱さの対比は何を表しているのでしょうか。浮かび上がって来るのは、意思の強さ、弱さの対比を演出しているのではないかと推測します。と言うのは、ヘブライ人の祖先たるアブラハム、イサク、ヤコブの三代族長の生き方が当に強靭な意思の強さ、貫く力強さ、知恵の深さがあったのではないでしょうか!これらは自己をコントロールする意識の高さを表現していると思われます。アブラハムは神に一見従順な様に描かれていますが、神がアブラハムにカナンに向かう前に言った言葉は「Lekh Lecha!」と言って、励ましたのです。これは翻訳し難い言葉ですが、強いて訳せば「行け!自らの意のままに!」「Go to yourself!」この訳は神の概念を捉える方向が違えば理解がしやすいと思います。これは「回帰的論理」で「Go to Kena'an」と思いきや自己に帰ってくる言い方になっているのです。自己の内部に引き籠もるという様な意味ではなく、自己の思いのままにするのが最善であると言う意味と捉えるべきなのです。ここに自立的選択が如何に重要かが描かれているのだと思います。自立とは自らの選択を責任を以って行ない実行する事に他ならない訳です。正に生きるとは自己を掛けた真剣勝負である事をトーラーは語っているとという事だと思います。

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