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トーラーと言うのは格別目新しいとか、斬新とか、優れてるとかいう思想ではなく、人間の行為、考え方、諸営為をざっと追認した思想です。どこが私がのめり込んでいるかと言うと追認された諸々の諸営為を世界を創ると解釈した所にあると思っています。昔、トーラーが書かれた時に物語を新規に創ったと言う事は多分しなかったと思います。昔から伝承されていた物語を引っ張って来て、哲学的肉付け、と言うか骨格作りを施しただけのだろうと思います。宗教とは言っても一族郎党に聞かせる浪花節の脚本と同じですから、素材になった物語は馴染みのあるものが選ばれて一部ひねりを加えたと言う事だろうと思っています。 そして神が天地を創造したと言う物語を利用して、人間の営為も神の創造を引き継いだ様に話しを繋いで人のする事も神の創造と等質であると展開して行ったのだろうと思います。その様に人間の営為の正当性をトーラーで伝えようとしたにもかかわらず、キリスト教は何処をどう読み違えたのか人間の罪悪感の話しにすり替えて政治的イデオロギーに利用した訳です。ですから、キリスト教は病に至る病理現象と言えると思います。最初期のキリスト教徒とは北のナザレ中心のユダヤ人達とギリシア化した出稼ぎ地中海ユダヤ人たちです。既に翻訳でないとトーラーを読めない世代になっていたのです。ギリシア語訳をしたのはエルサレム在住だった72人のユダヤ知識人がわざわざアレキサンドリアの図書館に出向いて仕事をしたのです。この仕事自体はギリシア化したユダヤ人のためのものでしたが、これがいつのまにかキリスト教の布教に利用されてしまったのです。ギリシア語で書かれていた為、拡散に好都合だったのだろうと思います。キリスト教は正確にユダヤ教を引き継いだのではなく、地中海の風土に馴染みながら変容しつつ拡散したのだろうと言うのが正確な素描であろうと思います。 それでは、翻訳は正確に意味を引き継げるのだろうかと言う疑問が湧きますが、トーラーに限ってはそれは正確どころではないと言わざるを得ません。トーラーにおいてはヘブライ語文法の中でしか解決しない問題を背負っており、語の由来等の仕組みがヘブライ語文法を背景に漸く理解が届く部分も多いのです。一旦ヘブライ語の縛りから放たれた文脈は伝播先の言語において解釈される為、変容はた易い事になろうと思います。 さて、言語が違う事によって翻訳にとって何が障害になるだろうかと言う事ですが、問題は「文学性の境界」を越えられるかという事にあります。我々現代人は多くの優秀な翻訳者を養っていますので、それ程の障害を感じないかも知れませんが、トーラーは文学性を文法の在り方に大いに依存しているので、翻訳には特に不適な書だったのです。また、トーラーは宗教書としての受け止めはあっても、何よりも先に文学としての受け止めがなされることが薄いのではなかったでしょうか?宗教書として特殊な受け止めが優先されれば書の主張は見え難くなるものです。従って翻訳の障害は二重に渡っていると言う事になると思います。 |
| 「文学性の境界」とは「表現」が人が持ち合わせている表現手段即ち其々の固有言語が築いて来た固有の表現力は固有の意識内でしか表出、感受出来ないとと言う事実を持っているからだ言う事に尽きます。例えば❶トーラーのヘブライ語は現代人からみれば統語法(syntax)の曖昧な言語と映りますが、表出を意識して捉えればそれ程曖昧な言語ではありません。また、❷神名「YHVH」等を禁忌の言葉としか理解出来ないのでは、何も理解の及ばない事になりますが、これを表現即ち宗教的主張と捉えれば、容易に理解の及ぶ処となると思います。禁忌だとの決め付けが理解を遠ざけていると言わざるを得ません。表現即ち表出即ち主張と考えれば何処かに答えは用意されている筈です。何故ならトーラーは宗教書故問と答が用意されているのだと思うべきだと言う事です。 |
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