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私はクリスチャンの言ってる事は殆んど理解出来ないし、大丈夫?この人達!と頭の中を疑ってしまいます。トーラーは既にクリスチャンにとっては根幹ではないのでしょうね!新約聖書のメッセージが矢張り唯一なのでしょう!しかし、新約聖書とは要約すればイエスの伝記です。その伝記たるや如何にイエスの名を高く出来るかに腐心しているのが見えるだけです。人生の最終局面に於いてユダヤコミュニティから不評を買い、磔刑に処せられた残念な終わり方をした事を逆手にとり伝承の中で神に祭り上げられたのですが、その伝承の結論はユダヤの伝統の範疇の外と言えるし、ヘレニズム的混淆を起こしている大衆化された通俗宗教に堕ちてしまったと考えるしかありません。 トーラーに於いては神に成るとか昇天と言う概念は避けてきたものであるし、寧ろ考えられない言い方です。旧約聖書=トーラーは気付きの書、警告の書であった筈です。人の葛藤を経ずして手が届くものではなかった筈です。それが、いつの間にか安易な信仰を求め開示すると言う安上がりな方法に導き入れてしまったと言えます。クリスチャンはある意味お手軽に非常に低い敷居を跨ぎます。 新約聖書と旧約聖書と並べて論じる事は出来ないと言った方が早いでしょう。旧約聖書は特殊な構造をした文学であり、警告の書です。新約聖書は警戒心が全く見られない、喩構造を実体化した、通俗的読み物です。言ってみればナザレのイエスの伝記の陽なものです。書の性格が全く違うものを同列に扱うことは抑も出来ないと言うべきです。世界観が全く違います。新約聖書と言うのはアプリオリな世界を想定しているのに対して、旧約聖書=トーラーは人にとっては既知のアプリオリなものは一切なく、世界の創造に関与する事が重要な行為になると考えて良いと思います。 |
מבנה
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2015年8月25日火曜日
| 230)旧約聖書と新約聖書は抑も同居出来るものなのだろうか。 |
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