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■私のトーラー研究の方法は非証明的概念は一切度外視し、トーラーの言葉上の解釈は一切触れる事なく、物語の形とか構造や物語と物語の関係における客観的に取り出し得る構造を概念化、言語化して、トーラーを照射し直す事を目指しています。そしてトーラーの著者の思いに触れてみたいと思います。今のトーラー(旧約聖書)は歴史の垢に塗れてしまっています。構造解明からえられた視点で改めてトーラーを把握し直し、トーラーの新たな価値を探ろうと云う目論見があります。 これ迄の宗教家は各々の感性で解釈し、宗派を創設したり、主だった宗派に所属したり、例え宗派に所属しながらも違和感を感じながら宗派の慣習的日常に染まるしかないのが実情なのでしょう。それはキリスト教に限らずユダヤ教の中にもあるのだろうと思っています。■或いは別の在り方もあります。日本では宗教的にキリスト教徒でなくても欧米文化を通じて、キリスト教の観念形式を受け入れている場合もあると思います。文化は庶民に取っては波状的に生活、人生、思考様式を洗い決定付ける影響があるもだと思いますが、結果、誰も或点に盲点の様に疑問に思わなくなった瞬間がその観念が終焉した瞬間でもある訳です。私はこれが何が問題なのかと言うと、キリスト教的観念形式は世界は極めて既存的であり概念がアプリオリ(先験的)であると言う受け止め方が、世界に関与する余地が全くない事が問題だと思っています。トーラーの観念の在り方は、人が創造を神から引き継いでいると考えるので、人間の出番は人が存在する限り、なくならないと言う設定になっているということです。人の営為のあり方の側面の数だけ関与する範囲が拡がっていると云う事でもあります。 |
מבנה
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2015年9月30日水曜日
| 266)トーラー研究と観念形式 |
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