トーラーが内包している重要な概念の一つは個性である事は既に何処かに書いた。しかし、日本人にとってこの言葉が遠い概念である事はつくづく残念である。個性と言った途端、萎縮し、自己を放棄する方向に、テストされるかの様な気持ちになるのはどうしてなのだろうか?堂々と自己を張れない心的風景は何なんだろうか?個性と言う自己主張、自立志向は生存の為の最低条件である。自己が充足した生存が出来る事がトーラー理解の為の必須条件と言えるのである。自己の納得の行く生き方を追求するためには自己を能く知る事である。自己が最も充実出来る点を知っておく事が必要になるのである。世界の多面的な創造を実現するためには凡ゆる個性が必要なのである。 キリスト教は残念である人間を罪悪に一本化して決めつけた事は兎に角残念であった。矢張りトーラーの意図を読み違えてしまったのだろう!さり気無く思おうとどう思おうと頭の片隅に人間は罪深い存在であると言う観念が居座り出すと、その観念に暇を出す事が出来ないのだろうか?人間は可能性をもっともっと追求して良いのである。 |
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人は罪深いとは実は他の目的に利用された論理だったのである。古代の多民族帝国主義的国家を作る為の論理としては実に好都合な論理をキリスト教は提供したのである。この様に書くと怒りに慄える御仁が少なからず居るであろうが、トーラーが本来的に語っている事を読み違えたのは、キリスト教の方であると強く言っておきたい。その理由は追々述べて行きたいと思う。 |
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