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2016年3月12日土曜日

277)トーラーの神名

トーラーが提起した事は格別特殊な事ではなかったと思っている。視点を変えるだけで良い事だった。喩として語った概念を絶対視する事なく、人が出來る精一杯生きる事を追認してそれへの立ち返りを促して誘っていたのである。トーラーは当たり前の人の営為を丁寧に追認的に認めたのである。それを「諸力、諸能力Elohim」と呼び、これを最初の神の名にしたのだ。神の次の名はやや具体的にイメージを絞った。神の内実に答える様に「形造る、建設YHVH(Yehaveh)」であった。これは単なる在るという意味ではない。より強く、「在らしめる」という意味で、ヘブライ語の動詞の内、ピエル態に属する動詞の三人称未完了形であった。これを発音することはユダヤ人の間では伝統的に口にしてはならないと言われてきたのであるが、人は弱い存在であるので、濫りに神の名を称える事を戒めていたものが、拡大解釈されて個人的な倫理的抑制の範囲を超えて一切口にしない事になり、結果、伝承もされなくなったが、元になった「有、在、HYH」をピエル態三人称未完了に展開活用しない訳に行かない筈なので、現実には全く発音しなかったという推論自体が無理だったと言えるのだろう。
神を特殊な体験を通してしか捉えられない人達もいる事は知っている。しかし、神をその様に外形的に捉える事には限界があると言わざるを得ない。精神的な無理を冒してまで理解するものではないだろう。少なくともトーラーにおいては。トーラーには過剰な負担の多い信仰はないのである。私自身は男であるが、女性の中には狂気の信仰風景を見掛けるのであるが、精神のバランスを崩してまでのめり込む事では無いのである。我々はイスラム教徒の女性が殉教者を気取り、自爆テロに走る風景を聴いているが、同じ体質はイスラム教徒に限らず一部の人達が持っている事を危惧するのである。無理な体験は物語の中だけで十分ではないだろうか?現実の人間がすべき事は自らの為に学ぶという態度ではないだろうか?
神を人格神と捉える事を私はしないが、そう捉える事が思考の入り口にはあり得るだろうと思っている。内省的、倫理的なバランスを取るためにあり得るだろうと思っている。何故、私が人格神を否定するのではなく、思考の過程で人格神を差し入れないというだけで内省と倫理は自己で出来ると考えているからである。そこには私の場合、神は特に必要としてはいないのである。

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