| 「愛」にはそれ自体が価値があると言うものではないだろう。飽くまでも誰でも一度は経験する人間の営為の一側面(ジャンル)ではないだろうか?キリスト教はそれをフレームアップしただけではないのか?私にはそう思えてならないのだ。愛とは人の可能な能力の一つである。だから可能ではあるが難しいのだろう。「愛」は深くも浅くも、広くも狭くも、長くも短くも、美しくも醜くも出来る。自分の領域で自在に出来る可能性がある。私はイエスがそれを見付けた事は解るが、営為の一側面(ジャンル)をカウントしただけの様な気がしてならない。トーラーが考えているのは営為の種類は自ら考えて創る事が出来ると言う事なのだ。が、自分で考えても良いのだから、それを他者と共有できるか否かの差はある。と考えれば如何かと思うのである。これが私のキリスト教に対する答えである。 |
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