מבנה

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2018年8月17日金曜日

外在的神観の限界

例えユダヤ教に大変理解のある人でも神観がどうしても神様の域を出ないと、偶像の神観の様な余地が残る。すると、あれほどトーラーが人の内面の事に触れようと語ってるにも拘わらずそれが自己の問題から乖離してしまうのだ。神様を信ずる事によって他者のままの存在を隣に置いているだけの様な事になるのだ。これでは自己の改心即ち自己の訂正は起こらなくても良い事になるのだ。自己の訂正とはアブラハム、イサク、ヤコブの生き方に倣い拡張する事に他ならない。何だ!それではユダヤ人と同じではないか!と思うのはそれでも構わないではないか?共にトーラーを読む者どうしであろう!違うのか?
ユダヤ教の宗教家が人格神に拘るのは人格神から自己の問題に飛躍する事を期待しているからなのだろう。その様なダイナミズム残しトーラーの意味を引き継ごうとしているのだろう。ユダヤ教の宗教家は人の内面に何が起こるかを見越しているのだろう。

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