| トーラーと言う書は宗教的な古層から新層への描写をする事でそれらを人の転換と捉えて反省的に学べる様に用意したものであろうが、後代のキリスト教などは学ぶ事はせずに丸ごと鵜呑みにして真似をしてしまったのである。何と言う誤謬を犯してしまったのか!トーラーは自立した個人にしか理解不可能であったのではないか。自立的な個人がトーラーに感動する事によってのみ更なる豊富化を期待したものだったのであるのに、万人に理解出来るかの様な普遍主義を持ち込んだのがキリスト教などの亜流達であったのである。キリスト教は教祖の悲劇を利用して神への昇格を図る始末であった。何と言う勘違いではないか!こうなるとユダヤ教では考えられない事が起こってしまったのだ。ユダヤ教は学び、生き方の学びをして来た事が、神との主従関係と言う詰まらない架空の物語にすり替わってしまったのである。如何にエルサレムと交流が少なかったかが窺い知れる。サマリアより北方の僻地であり、寧ろギリシア植民地に近い文化圏に属していたからであろう。 キリスト教が一番気を付けなければならない事は、外在的神観であろう。勿論ユダヤ教も外在的神観を持っているが、より内在的契機を持っているのである。内在的とは内省的倫理観の事である。キリスト教は多くの宗派で内省的習慣を放棄してしまっている。キリスト教の内省が残っていたカトリックの告解はかなり前から殆んど形骸化していた。ユダヤ教ではトーラーの中で変遷史が内省的道筋を担っていた。また、何を以て罪悪ととするかは時代の変遷に委ねられていた。 |
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2018年9月11日火曜日
| 内在的神観、外在的神観の差 |
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