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神の世界の創造というのは一応、自ら目論んで分析し、又は分析して目論んで、創造してその結果満足するというサイクルを作るんですね!? 古代の書籍トーラーは古代人の古風な且つ稚拙な思考枠から抜け出て居ないと言うレベルのものかといえば、私はどうもそれは違うような気がしてます。トーラーを維持した個人乃至集団はかなり洞察力の優れた、構想力に優れた存在だったと考えています。洞察力を何がしかの構想力に基づいて宗教的に翻訳したのがユダヤ教と言う事のようです。今の研究者は言葉=ヘブライ語文脈のみを追いかけて、ストーリーの骨格とか構造を解明する態度に欠けるところがあると感じます。構造解析は古代人の考察の中で極めて効率の良い秘匿方法である訳です。秘匿とは言いたくないと言うことではなく、逆に最も重要事項であると言う事の為にした事である思います。重要事項であった為に秘匿したのではないでしょうか。
最近、マルクス資本論を読みたくなりましたので娘にしまってあったところを聞いて出してもらう依頼をしたところです。マルクスは想像以上にトーラーを下敷きにしているのではないかと思い至ったのです。トーラーは明らかに労働を特別な位置付けをしています。また、トーラーの中の出エジプト記という項目はイスラエル人をエジプトの奴隷状態から解放し脱出するストーリーですが、その自立の過程がまるで階級闘争そのものとして描かれるのですが、日本の左翼は聖書なんか殆んど読まなかったでしょうから、どこがどう関連しているか想像もつかなかったのではないでしょうか。トーラーの冒頭は、神が主人公ではありますが、やった事と言えば、純然たる労働そのものです。疎外の無い労働=労働の理想型=非疏外労働とでも言っても良いかと思いますが。そんなわけで、薄々は分かっていたのですが、どう関連してるか調べます。マルクスの祖父は確かユダヤ教のラビだった筈なので。マルクスがプロテスタントに改宗したのは6〜7才くらいの頃ですが、理由は解りません。自分から洗礼を受けたとは考えられませんが、プロイセンという土地、国、時代的背景もあったのでしょうか。知りたいところではあります。
宗教は麻薬と言う理論?は中国共産党がそのまま剽窃してチベットやウイグルの弾圧を行なってますね。毛沢東がチベットを解放すると宣言した理屈はまるでキリスト教の福音主義そのままです。そう言う事は余計なお節介でしかありません。 企画から労働の一貫性が眼目のトーラーなので正に自営業者の為の宗教と言えるかもしれません。
階級形成とは労働を贖うことと言っても良いくらいです。 宗教お宅たちは神様が存在するなどの証拠を例示すると、ああ!やっぱり神様は居るんだ!とか言って、歓びます。そういうところが妄信性の証明になってるんですね。また、T君のような頭の錆付いた人間は、神なんて居ないんだから信じねえよ!と到って単純です。普通の人間ではありますが、思考は限りなく続けなければならないという事には耐えられない頭脳しか持っていません。居るか居ないかと言うことを根拠に神を語ってるんじゃ無いんですけどね。居るか居ないかを根拠に神を語る事の愚かさを思ってしまいます。では、何でしょうか。 マルクスも子供の頃にプロテスタントに改宗してるので、旧約聖書として読んでいるのは間違いないでしょうが、何処まで読み込んでるかですよね!? 資本論にトーラーの筋目を読む!果たして巧く行くかは解りません。私は当てずっぽうなところがありますので、一寸怖いです。何故当てずっぽうなのかと言いますと、自分ではハングリーな「感」とでもいうか、いつも思考の続きを考えたいと思ってるんでしょうね。 |
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ユダヤ人は安息日を守ってきて民族を守って来たと言うことを聞いた事がありますでしょうか?日月火水木金と働いて労働して最後の七日目土曜日に休むと言う事ですが、トーラーで神が創造の行為とそれに満足して休んだと云うエピソードを記憶して宗教的に定式化したものですが、私はこれはユダヤ人特有のジョークだと思ってます。創造=労働の方がどちらかと言えば重要な筈なんですが、休んだ安息日を一義的に記念すると云うネガポジの関係にして記念するんですね!? 神名を門外不出にしたところ自分達もなんだったか忘れてしまったと言う事にした理由としてモーセと云う人物に託した契約でみだりに神の名を唱えるべからずという項目がある為としてますが、これも明らかにジョークですね。意味を辿って行けば解る筈のものなんです。但し、かなり重要で本質的な意味を担ってるので、秘匿に値するものなんですが。YHVHは固有名詞として位置付ける方がいますが、それ以上の極秘事項です。どうしても漏れ出してしまうのならあのモーセに伝えた通りだと言えば納得して貰えますかと言う事でしょうか。あれこれ喋られては困ることなんですよ。民族的な財産ということなんです。 マルクスの労働の定義はプロテスタンティズムの枠で考えられている可能性はありますね。何故改宗したのか?父親の影響があったんでしょうね。プロシアの国情にもよるかもしれませんね。亡くなった廣松渉あたりが詳しそうですが… ユダヤ人は十人集まれば十個の意見。誰もがユダヤ人でありながら各々は他の同胞と同じ意見を持つことを酷く嫌います。この性格は自分が世界の創造に参加しているという意識が根強くあるからです。ひとと同じ考え方をするのは恥ずべき事と思ってるんですね。何をどうしようとやってる事は自信たっぷり堂々と、俺は!俺は!で喧々諤々、絶対に譲らない!譲るもんか!で纏まるものも纏まりません。それも、皆真剣なんですよ。冗談で茶化す余地なんかない。 考えること、企てること、行動することは同じジャンルのことなんですね。世界の豊富化に参加してることになってる訳です。そして最後に作ったら満足することというのも必ず入ってます。 世界(地)というのはまず渾沌であり、分析して企画し、創造して満足するというサイクルを作るんですね!? もし、今度の資本論などを読んだ後にフォイエルバッハ等も手を伸ばした上で、やろうと思い付いてることは、ユダヤの先人は疎外の概念を既に知っていたらしい事を調べたいと思っています。寧ろそれがテーマだったかも知れないのです。何故神の登場か?神は「完全労働、非疎外労働(私の造語)」の象徴なんですよ!?無疎外労働と言い換えても良いんですが。 それは敢えて名付けるならば非疎外労働とも言うべきものです。非疎外労働はその過程のうちどこが欠けても立ちどころに疎外的状態に陥ります。これは、大袈裟でも何でもありません。トーラーには非疎外労働の象徴として創世記冒頭の「神」を置き、疎外された労働の象徴としてエジプトで奴隷に転落した「イスラエルの民」を置いてるわけですね!?どんな労働も自己の充足感なしに完結しません。トーラーに同じものが見つかることを期待もしませんが、原初的な根源的な警告音の響きが聴けたらと思い、更に従来の左翼が感じていた疎外論も含めて批判的に修正出来れば、解放の論理の新たな修正が出来ないものかと夢想します。 その為には、日本の思想が行き詰まってる状態を左からも右からも打開する必要性を感じます。日本の状況は余りにも遅れていると言うか発想が貧弱です。一人の天才に、一つの党派に押し付けるのは不幸と言うしかありません。たったこの前の戦争敗北に対する共有出来る反省を持てないのが日本人なんですよねえ!国家と構成員との関係がヨーロッパアメリカ人の捉え方とだいぶ違ってたようですね。企業の所属感にも諸に現れてしまってますが、これなんかも日本では疎外は感知出来ない仕組みになってるんですかねえ!所属感の方が甘く居心地が良く優先してるようです。折角、疎外と翻訳された概念を有したのですから出所を良く理解した上で定着させたいものです。
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