מבנה

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2013年10月6日日曜日

勝手な拡大解釈は慎むと言うのが私の立場。

昔、ヘブライ語を学び出した頃ある方から「聖書のテーマは何だと思われますか?」と尋ねられた事があったので、私は「自立です。」と答えました。その方は苦笑されてましたが、私は何故苦笑されたのか、解りませんでした。又聞き返す事が出来ませんでした。矢張りその方の考えを聞いておくべきでした。私はその後、この事について再自問自答を繰り返して来たものです。今なら少しユダヤ人に引き寄せて「生存です。」と答えたいところです。聖書=トーラーはユダヤ人の代々伝えて来た秘伝の書です。本来はユダヤ人の持ち物を勝手に旧約と呼ぶ事は失礼極まる事だとおもいます。本来ならばこれは他人に知られたくもない遺言書の様なものです。ユダヤ人の先祖達は自分達の過去の生き様から可愛い子孫達が力強く学び取って欲しいものですからそう易やすと他の民族に教えたくはない筈です。しかし、ユダヤ人の属するセム語系民族の伝統として家督は男系相続と言う事になっていて、これはイスラム教にも引き継がれて、宗教的な拡大にあたって妻達の出身民族は問わないと言う家督の相続、拡大が行なわれたという研究結果もあるのです。ユダヤの伝統の中には雑婚を嫌った時期もあった様ですが、ダヴィデの不思議な発言「私は黒い。」もありますので、実際はどうだったのか解りません。今でもエチオピアのユダヤ人のイスラエル移住は続いてますから、不思議でもない訳です。ユダヤ人とは民族化した宗教的な集団と言っても良いと言う事でしょうか。従ってトーラーの読み方は自由とは言ってもユダヤの培われた伝統から外れてはならないと考えています。勝手な拡大解釈は慎むと言うのが私の立場ですし、その様にすべきと考えています。
次いでに書いてしまいますが、私は理由があってトーラー(旧約聖書)は読みますが、新約聖書は読みません。理由とはトーラーと新約聖書とは編集方針が全く違う事が解ったからです。スタンスが全く違うのです。キリスト教が嫌いだからとはこの際ケチな事は言いません。唯、新約聖書にユダヤ的なダイナミズムや触発されるものを感じないのです。新約聖書はパッチワークの様です。ユダヤ的な部分もありますが、中心的な課題は汲み取れなく、周辺的であると感じてしまいます。又、ベクトルが全く違うと言って良いと思います。トーラーは意識改革ではない形での脳トレーニングの書です。自分で視野を切り拓けと言われてる様です。且つ行動の書です。自分で気がつけ!ここに気がつけ!と言われてる様です。自力でここに這い上がって来いと言われてる様なものです。トーラーの最も重要な点は自らの視点を築き、自らの行為を貫き通す事を学べ!と言う事ではないでしょうか?某かの特定の概念ではなく、言葉で名付けられない人間の生き様の事を問え!と言われてる様に感じます。

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