| 千年先のことは予測出来ないけれど、私が仮にあくまで仮にユダヤ人なら現在の友は千年先の友とは限らないと言っておきます。今の友は今の時代の理解出来る範囲での限られた友なのです。今の友は絶対に偏見は持っていないと言う筈だけど、千年後の新しい偏見を用意をしていない保証はないのです。どうしてそう言えるのでしょうか?二千年前に生きたイエスと言う名のユダヤ人は同胞でありながらヘレニズムと言う時代を被って来たことによって、その後引き継いだ者達は再度ユダヤ教をどうしても放っておけなくなったのです。その力を借りなくてはならなかったのに、逆に聖地奪還と称して無駄な犠牲を強いたのだし、ユダヤ人の存在に対して牙を向けた狂気の国家犯罪もあり、其れに対してローマの責任者は結果的に手を差し出す事はなかった。中途半端とも言える理解はこの様に新たな偏見、無理解を用意してるかも知れないのです。我々は時代を凝視しなければなりません!放置すると我々の手を離れた無理解は新たな偏見を生み出す可能性があると心得なければならないのです。確かにユダヤ教を理解する事は難しいですよ!しかし、理解するとは何でしょうか?ユダヤ人が生きて、生き様を示した事の本質を理解しないまま一般的な知識、教養のままの理解は抑も存在し得ないのです。解り切った事です。だから、「神様が居るから信じる。居るなら信じる。神様居ると思う。」は既に充分、偏見の素材です!自分と言う生き様を持つ事抜きには神なんか存在し得ないのです。教養としての信仰はそれで既に偏見の素材の準備は出来てると考えていて良いと思っています。 |
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