מבנה

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2013年11月28日木曜日

新約聖書について私の限界白状します。   


私は新約聖書に魅力を感じない理由は、それがユダヤ的でないとは言いませんが、充分、ユダヤ的なんでしょうが、雑味のあるユダヤの味と言って良いと思います。その雑味とは、トーラー的な思考、思想に追い込むエネルギーが感じられないと言うか、擬似的ヘブライズムと言う印象を持ってしまうのです。クリスチャンには大変失礼なのですが、クリスチャン自身がユダヤ的な要素を削ぎ落としたのならそれもやむを得ません。私は無理に新約聖書にユダヤ的要素を求めてもどう言う意味があるのかが理解出来ません。クリスチャンには信じると言う行為が追加的に必要な分、不自然さが付き纏いますが、ユダヤの人たちには人間の営為そのものが宗教的行為になり得るので、本来的、シンプルであると感じます。クリスチャンは神の存在を認めることから始まってる様に見えるのです。ひとたび神の存在に疑念を持ったら成り立たない建築物です。ユダヤの人たちには神を信ずると言う行為は付属的ではない事です。ユダヤの神はユダヤ自身が選択した事です。本当らしく振舞うことは人間ですから幾らでも演技出来ます。怪しくなって来たら塗布に塗布を重ねるしかありません。
私の無理解が誰かを傷つけているかもしれませんが、それは素直にお詫びするしかありません。イエスと言う人は無理に神に奉り上げる必要は無かったのです。その様な神学を許した文化があったと言うことです。その様な文化的フィルターを通って来たものを現代人は拒否する事はやむを得ない事と思います。矢張りどうしても無理ですから!現代人は遥かに過去の文化的フィルターより進んだ知見の中に生きていますから、精神的な揺らぎは持ちながらも古い時代の知見よりは進んでいるので過去そのままの言葉に依っては救済に及ばないことは当然と思います。この辺までが私の言い分の限度となります。
  

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