מבנה

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2014年1月3日金曜日

新約聖書と旧約聖書の編集上の違いへの自覚     

  このブログの数少ない読者に是非分かっておいて欲しい事があります。それは新約聖書と旧約聖書とは明らかに編集方針が全く違うと云う事です。新約聖書を読んだ頭のままで旧約聖書を読む事は別次元の事として扱わなければならないと言う事です。この二者を同じ目で眺める事は片方の視点からのみ見る事は厳に慎むべき事であると云う事です。新約聖書はイエスと云う人物(と言うと抵抗感を持つか方もいるかも知れませんが、)の伝記の様な性格があります。イエスを人と理解しようと神と理解しようとイエスの辿った道を記すものであることには変わりありません。旧約聖書の編集方針は恐らく多くの伝承的素材、民族的歴史、民族的経験などを素材にして民族(子々孫々)に向かって警告を発している、民族的遺言書の性格を持っています。ですから旧約聖書=トーラーはその素材によってそれぞれの個性が違って見えます。しかし、総ての物語を貫くものはトーラーに答えは直接書いてはありませんが、警告を多くの箇所に遺してあります。其々どう汲み取るかは任されている事です。人が陥りがちな間違いを、警告として告げている事が解ります。それらは自ら探し当てるようにと各所に陥穽を仕組んでいます。仕組まれた陥穽に落ちた者が疑問に思ってこそのその人自身の答えになるように書かれてはいないでしょうか?翻って新約聖書には答えが直接に明かされて書かれてはいないでしょうか?疑問はイエスを通して明かされると云う形になっているのが、新約聖書と云う書ではないでしょうか?新約聖書においては、言葉の取り出しが容易なのに対して、トーラーにおいては言葉の取り出しが無駄になる場合があります。トーラーを鵜呑みにするととんでもない事になります。トーラーは人が答えを出さないと完結しない物語です。  

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