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2013年12月28日土曜日

無神論者が考える有神論 

私は歴気とした無神論者ですが、しかし、到底、思想的に有神論を凌いでいるとは思っていません。じゃあ有神論者と同じじゃないかと言われそうですが、飽くまで無神論者から見て負けは負けです。有神論は大変迷路に入り込み易いとは思っていますが、しかし、 思想的には私は一歩も二歩も引き下がらざるを得ません。私は高々、一部の有神論者に向けての批判をしているだけであるのかも知れません。それは、それらの方は内心から有神論者なのかと言う事です。薄々で信じている様な振りをしているだけではないかと。そこに信仰というもので無理に乗り越えようとしているだけの様に思えるのです。有神論者は神的実体がある事と云う信仰で乗り越えの根拠にしてると思えてなりません。そう言う衝動は研究者の中にもあると思います。トーラーの歴史的裏付けを調べようとしたり、成立史を詮索したりの事実があると云う事でそれが分かります。こうして神的実体を証明したり推論したりして引き寄せようとしています。しかし、トーラーを書いたヘブライ人は過去に架空の事であろうと歴史的伝承であろうと多くの材料と概念を駆使して何かを訴えていた筈です。何を訴えていたかは一族の子々孫々に向かって生存の為のあらゆる類いの警告を残したかったのだと私は思っているのです。トーラーはその様な書かれ方をしていないでしょうか?     
私が今敬服しているのはユダヤ教の捉える有神論です。どの様な神の形であるかは、私から説明することではありませんが、信仰によって得た神ではない事は明らかです。しかし、ユダヤ人は常に神との対話を欠かしてはいないと思います。神の後継者として自由な行動力を以って世界の創造に参加しているように見えます。如何なる行動も創造の為という位置付けになっていると思われます。行為がオリジナルであればある程、神の後継者としての創造に叶うものだと思われます。我々日本人には想像も出来ない程の世界観であろうと思います。宗教と言うと我々はつい儀式などに気を奪われがちですが、ユダヤ教は既にその様な宗教観を克服して来たのだろうと思います。実際にはユダヤ人が一体となって古い層も引き摺ってバランスを確保している様に見えます。/続く     
思想について勝った負けたは不適当ですが、有神論が思想の可能性において優れて深いと云う認識を持っています。本来、言葉は有限個なのに対して、物語形式は豊富な表現力を可能にしております。物語は含意を豊富に維持します。ユダヤ人の先祖達は物語の豊かな表現力に着目して、含意したのだろうと思います。 
無神論者が考える有神論と言っても他の無神論者は至って構造が簡単で、神の措定が自ら破壊した概念ではありません。自らの神の概念を検証を忘れたままであることが多いのです。何を否定するのかが曖昧なままであることが多いと思います。無神論が何をテーマにしているかは極めて付属的な観念構造の一部分でしかありません。有神論の場合は不可視の問題に対しては信仰という橋を渡らなければなりません。これは不可視であることを更に目を瞑れと言ってるようなものです。有神論も無神論も言葉の表面だけを見ていれば本質は見えません。存在するテーマは人間の満足の行く自律した生存のあり方と云うことではないでしょうか? 

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