| 私は「聖書」「聖句」と言う言葉は言葉を殊更奉りあげる事なので、私はこの立場とは逆の立場です。トーラーの場合には読者(聞く者)とのとの対話を抜きには意味をなさない(意味が成立しない)ただの昔話集ですから一章一句を抜き出して特別視するとトンデモナイ誤読の元になると思っています。私はトーラーの内的な力関係=ダイナミズムを客観的に誰もが見える様に取り出そうとしています。 それを誰でも読める様にブログに書いているのです。言葉だけ一章一句を取り出すだけが何故不十分であり、ダメなのかというと、トーラーの著者の著述意図をある時ハッキリ透けて見えたのです。それは行間を読むと言う表現以上の感動でした。トーラーの中心テーマは創世記冒頭の神の創造そのものと言うより創造の仕方にあったのです。そして神が人を作った時に息を吹き入れたと言うところに全ての物語が繋がっていたのです。トーラー全体の構造を著者は相当な緻密さで作り上げていたのですね!普通、聖書読者は文字面ばかりを追いがちですが、それは新約聖書には当てはまるかも知れませんが、旧約聖書(トーラー)は人の気付きがないと(人の強さを触発しないと)意味をなさない様に書かれていると思いました。ユダヤ人はそこに気がついている筈です。それでなければユダヤ人の創造的な活動を説明は出来ないと思ったのです。 |
| トーラーはその主旨がとんでも無い処に隠されているのでそれを探す為には物語の関係を把握しなければ解らない事です。感受性の高い人でしたら解る事かも知れませんが、大概の人は見落としているかも知れません。トーラーの著述者は組み立てに心を砕いて書いていると思われます。組み立てとは何処に附箋を貼るとか、順序をどうするとか、何処に繋げるとかです。トーラーは構造抜きには全く活きて来ません。 |
| 抑もトーラーとして成立したユダヤの典籍を何故剽窃して、旧約聖書としなければならなかったのかが理解し難い事です。常にユダヤ教からの自立を見ていないにも拘らず、ユダヤ教を奇異な目で見ることしか出来ないのは、ユダヤ教の本質を理解した上で繋がっていたいのか、説明する事が出来るのだろうか? |
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