| 「喩」は時代と共に風化します。解釈の網をすり抜けた「喩」は個人の手に渡り個別の解釈に委ねられて行く事になると思います。誰一人と一致しない空間へ…… |
| 宗教は多くの場合「喩」を多用して語ります。次第に「喩」を錯綜させて、殆んど内部の当事者でも解らない解きほぐす事の出来ない程のパズルの如くになります。「喩」は当該の時代を反映して語られ、時代を越えると「喩」としての役割が低下します。そのまま放置しますと、何の為の「喩」かが全く不明になります。「喩」が成立した当初の時代には的確に意味を伝えた筈ですが、時代、場所を越えれば錯誤の語りに過ぎません。宗教どうしは道を袂を別かてば更に別言語どうしとなってしまいます。ですから、「喩」に意味を見出せなければ、無理にその宗教から離れてもその個人に責任は全くないことになります。宗教の主催者、担当者、総じて当事者の見落しがあるに過ぎない事ですから、異端者の烙印など受けても取るに足らない事です。 |
| 「喩」の構造に気が付かない、無視する等すると同胞に非実体を押し付ける事になります。人は「喩」で巧みに意思疎通を図って来ましたが、「喩」はあくまで本質そのものではありませんから、あくまで意を伝えんとした技法だったのです。しかし、「喩」が実体視された時点で宗教の狂信性の芽が発生したのでしょう。宗教当事者の内、狂信性に気が付いたグループは火消しを行なおうとしましたが、「喩」をそのまま利用する方が教団維持の為には都合が良かった場合、自覚した上で、本質的な部分を隠して教団維持を図ったのだろうと思われます。教団創業者は本質的な部分を自覚していたと思われますが、教団牽引の為に合理化した節が見えます。又、何らかの危機的状況があり、止むを得ず教団維持の合理化に走った可能性もあると思われます。 |
| 異端の問題が持ち上がりゴタゴタするのは時代が隔たり、解釈が多様化する余地が生まれた証拠です。時代の隔たりは誰も止める事は出来ない事です。異端は新たな時代の閃きとするのが理に適っていると判断すべき事です。 |
| 宗教の主催者、担当者、総じて当事者にとって教団のシェアは関心の対象となるかも知れない、又は教団の維持の為の経済的な規模が関心事項であるかもしれません。又、教団に所属する平信徒にとって教団所属は関心事項である可能性があります。しかし、「喩」が既にチカラを失っているのであれば無駄な所属感など無用な事です。 |
| 宗教が多くの部分を「喩」で構成されていることは時代が包含し切れない内容を発意-創意者が当該の時代の中から掻き集めた言葉を巧みに編んで構想した結果です。発意-創意者が一旦役目を終えた後は時代が変遷するに任されるので「喩」は次の時代以降は錆び付いて行く事になります。次の時代に的確な「喩」で受け渡される保証を発意-創意者が見届ける訳ではありません。ですから、「喩」はその役目から逸れて時として実体化の方向に歩むこともあり得ます。この実体化の先に待っている事は引き継いだ世代-時代において表出する狂信的病理の問題が表れます。単なる「喩」の更新に留まってる内は無害ですが、病理の先に待っている本当の病気を体験しなければならない事になります。現代では過去に成立した観念の体系に縛られた矛盾を解きほぐす事が出来ないまま悲劇的な事件もかなり多く発生しています。又宗教者自身に無用な精神の蝕み、醜悪な敵対関係を作り出している状況も生まれていると思います。 |
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