| キリスト教では新約聖書と旧約聖書の二つを基本の聖典としていますが、私にとってこの二つは余りにも別の編集のされ方をしており、同列には受け取れない、相入れない書であると感じています。何故この二書が一続きの書と受け止められるのか私には理解できません。特に或キリスト教聖職者に依れば、新約聖書のイエスは旧約聖書に救世主として予言されていたと主張しています。だから、何だと言うのでしょうか?そのまま利用する事は剽窃と言って良いのではないでしょうか?旧約聖書即ちトーラーは全く違う観点で書かれた事をキリスト教成立期の人達には見抜けなかっただけではないのかと思わざるを得ません。無理もありません。キリスト教成立期には様々な文化が錯綜した時期でもあり、キリスト教の解釈を錯綜させ、複雑なものにしたと言えます。キリスト教の布教経路が次第に西進して行くと元のユダヤ教との脈絡は一切失われて行ったのです。濃厚なギリシア的な化粧をアナトリアを移動しているウチに施され、ローマに到着する頃にはスッカリ国家宗教に衣替えしていた訳です。キリスト教はローマ帝国に利用されたと言って良いと思います。どの様に?ローマ市民になる為の個人に解体する為に! トーラーは読み替えられたのです。旧約聖書=トーラーと新約聖書の編集方針は全く違います。トーラーは人間の生きる為の力に働きかけるのに対して新約聖書はイエスを通してのみ救済を設定しているようです。イエスの言葉が最重要となっています。イエスの言葉を経由することが必要に出来ています。イエスはいつの間にか神になっていました。とうとう喩の中に埋没してしまったのです。イエスは勿論トーラーを諳んじていたけれどトーラーの喩の構造には埋没してしまったと言わざるを得ません。トーラーから力を引き出す事はしないで、流行の周辺ヘレニズム文化の解釈に接近したと言えます。トーラーでは自ら問う事が自己実現であると同時に自己の自由な営為であり、神の手を掴むと例える事が出来ます。その様な人の営為というものには興味がなかったのでしょうか? 初期のキリスト教徒がユダヤ人だということはキリスト教の正統性を証明する事にはなりません。何故、ユダヤ教と地続きだと言う事に拘るのでしょうか?寧ろナザレはユダヤより北方の文化に晒された地域でもありますから、お洒落なモダンな文化が浸透していたのだと思われます。ユダヤ教の古い伝統をイエスは批判もしていた訳で、イエスは時流に乗って来たとも言えた訳です。イエスはユダヤ人でありながら、ユダヤ教の可能性に見切りをつけた人間だったと言えないでしょうか?ムハンマドの様には行動出来なかったのではないかと思います。/…… |
מבנה
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2014年11月4日火曜日
| トーラーと新約聖書 |
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