| トーラーは完成迄に度々古層を取り崩しては再建を繰り返された大変込み入った構造物として作られました。又精緻な人間観察に基づいた中心的課題を持ち、それを演繹的に展開する事による警告集となっています。一方新約聖書はユダヤ人イエスの生涯が描く喩を生涯の終了と共に終わらせた閉じた喩的物語で終わっていると言えます。トーラー的述べ方から言えばイエスは自らの命を掛けた大失敗談であったということになります。これはクリスチャンには屈辱的な言い方になるかもしれないので申し訳ありません。トーラー側から言えばイエスは一人のユダヤ同胞ではありますが、神では決してあり得ません。人は被造物ではあっても、神では決してあり得ない!何を馬鹿な事を言ってるのか!と言う事になります。従ってイエスを救世主乃至神と認める事で成立しているキリスト教はイエスの生涯を描いた喩で一旦閉じているものになるので、人の営為は入り込む隙はない事になります。それも、トーラーを認める立場を取りながらです。しかし、キリスト教は旧約と言う言葉で実質的にトーラーの破棄のスタンスを採っている事と変わりません。イエス自身は確かに「トーラーの破棄ではない、トーラーの成就だ」とは言ってますが。しかし、イエス自身とキリスト教とは厳密に言えば質的に違っているのかも知れません。イエスが存命中に既にトーラーに対する誤解の発生と言う危機感を持っていた可能性があります。 トーラーの演繹性は人の営為は何に於いても自由で開放されており、トーラーから押し出されたものです。トーラーは世界の創造は終了されておらず、喩に必死にしがみつく必要がないので、人の営為は全く無理のない行為になります。キリスト教の立場からトーラーを解釈すると無理を相当しなければならないので、架空の架空を塗り重ねなければなりません。常識人から観れば宗教は狂信、盲信でなければならなくなります。キリスト教は宗派を問わず大なり小なりトーラーの文字通りの書いてある通りの仮構を信じる事になっており、どうユダヤ人が触発されて来たかを捉え直す機会を永遠に葬り去ってしまった様です。 |
מבנה
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2014年11月5日水曜日
| 喩の閉塞と開放された喩 |
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