| 私達は救いを求めてるなどと言う事を安易に言いますが、求めると言う事は、自分で切り拓くんじゃないのでしょうか?少なくとも、民は呟くとは言いますが、自らが主体となって救いを考えなければ、他人任せにする救いなど一体あるのでしょうか?トーラーでは自ら絞り出した力を神力の根源として描いているのですから、神任せと言う表現は土台出来ませんし、ましてや、救世主などと言う言い方は事実上あり得ない事です。実際にはユダヤ人の中にはメシア(マシーアハ)救世主を求める運動が発生した事もありましたが、事実上、現実的に認めてはいないのです。概念はあっても一番手の届かない所に置いているのです。 トーラーには寧ろ人の営為と力を信じている事が前提に書かれているので、救世主などと言う思想は入り込む隙間は無いと思うのですが、ヘブライ人も他の民族と接しているウチに揺らぎを持ったのでしょうか?私はその様な思想にトーラー(五書)からの逸脱を感じてしまうのです。従って、救世主の事を言うのなら、それは自分の外に在るものではなく自己の内にあると言う事ではないでしょうか?と言いたいと思います。 |
מבנה
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2014年12月28日日曜日
| 158)何故、救世主などと言う存在が必要なのでしょうか? |
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