現実に人が生きる事は切実で真剣でなければ、実際生きては行けません。しかし、生きている内に十分解決し切れない事も残念ながら多くあります。そこで人は「未解決問題の先送り」を何らかの形でせざるを得ない事になります。「未練」「諦め」「恨み」「怨念」仏教的に言うところの「執着」 等の問題を「霊」と言う架空の存在に託す事を発明したと言って良いと思います。この世で果たせなかった問題を霊と言う架空の存在に託して鎮魂するのです。しかし現実の政治、権力者が例えば「鎮魂」、「慰霊」と言った時には意味が現実的に解釈されなければならない事であると思います。現実にはどう言う意味であるのかと言う事です。権力者が言う「慰霊」がマトモにその通りだとしたらこれ程ナンセンスな事はありません。権力者がすべき事は如何に国民の命を守るかを問われなければならないし、さんざん戦争に駆り出しておいて「慰霊」の一言で済む問題なのかと言う事です。 霊とは誠に便利な概念です。便利乃至「都合の良い」言葉です。近現代的な意味での定義も出来ません。宗教が手を付けずに一番安閑としていた部分です。私は病気で一度倒れて死に損なった人間ですが、三途の川の岸に立った記憶もありません。私の気付きは霊のお陰でも何でもありません。思索的トレーニングの結果です。霊と言う空虚な概念は全く必要はありません。古の人達が考え出した架空の概念です。従って「聖霊」などと言う言葉、概念も私には何の事なのかマトモに取り上げようとする気も起こりません。ある意味私はこの様な概念には大変宗教従事者の悪意を感じます。虚偽の概念で大衆を丸め込もうとする詐欺師の様なものを感じます。 |
| ユダヤ教が伝えて来た宗教的諸概念は約2000年前に大きく変容の危機を迎えた事がありました。ユダヤ教が問いを発し続けていた事に当時の混交した文化(ローマ的ヘレニズム)の影響を受けたのか解りませんが、或る新興宗教が表れ、拙速で奇妙な答えを出してしまいました。ユダヤ教は未だ答えを出していた訳ではありませんでした。寧ろユダヤ教は問い続ける事に意味があったのだと言えると思います。しかし、新興宗教ではかなり概念の実体化をあらゆる所で行ないました。まるで、「聖霊」が、「神」が、「天使」が、「天国」が「悪魔」が存在するかの様に、見える形に直してしまったと言えます。これはイスラム教の発生にも影響を与えました。 |
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