| 私はトーラーが「人の如何に生きるべきか」と言う問いによく応えてくれるので読みますが、私は決して信仰心に基づいて読んでいる訳ではありません。寧ろ信仰心と言う言葉には不信感、嫌悪感を持っている位です。何故でしょうか?恐らく信仰と言う事と如何に生きるべきかと言う事とは全く異質な事なんだと思っているからだろうと思います。信仰心は非実体のものを実体化して見立ててしまう事でそれに依拠する形に見えてしまうからでしょう。信仰心と言う信用取り引きは自己決定権の少なからぬ放棄と見えるのです。自己決定権を発揮して結果を甘受した方が自分が生きていると真実思える訳です。生きるとは自ら選択して、結果を得ると言う事ですから、トーラーの表現は実によく受け止められる事なのです。トーラーは事実、人が行動、選択するところを実に鋭く観察しています。それが何故他者に預けるような信仰と言う自己決定権のないような心的状態を良しとするのだろうか理解が及ばないのです。それはトーラーに描かれている事ではなく、それを引き継いだと自認したグループが言ってることかも知れませんがその様な世界の内部で正統だ異端だと罵り合っていることが滑稽で溜まりません。抑も信仰と言う得体の知れない心的状態に拘泥した結果なのでしょう。人は自らの生き方を示すことしか出来ないではありませんか!人は各自で一人で生きる事についての責任を持つしか出来ません。又、宗教的な表現しか出来ない方々には信仰と言う事は自ら生きる事を選ぶ事ではなく信仰に逃げる事になっているのではないのかと問い掛けたいと思います。生きるとは他人事ではなく、自分事と自覚して頂きたいと思います。しかしながら、私自身はある意味人生を無駄にしたと言われるべき種類の人間ですからその責任を一身に負っているところですが、だからこそ、責めを感受する立場にいるからこそ、言える事があると思っています。私の場合は、トーラーは学ぶ対象であり得ても、信仰の対象であるとは違和感があります。 |
מבנה
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2015年5月19日火曜日
| 155)「信仰」と言う得体の知れない心的状態 |
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