מבנה

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2016年4月4日月曜日

223)文法的矛盾も表現の内

仮にヘブライ語原文で文法的矛盾が見付かるが、これに合理的な解釈を与えるのがキリスト教的解釈であろうが、これは恐ろしく曲解の原因であった。例えば「神Elohim複数形」を「創造したBarah単数」で受けるのは矛盾であるから、神Elohim複数形」の方を解釈変更したのが「尊厳の複数形」なる解釈であった。その様な説を紹介する事はやむを得ないが、ここは飽くまでも「神は単数である事を前提した解釈」である事も説明はしておく必要はあるだろう。そして、何故神が複数なのかを今は説明出来ないと正直に白状すべきだと、或いは原文では複数形になっている事を一切隠し通している翻訳聖書はそれで長い時を安泰に過ごせると思ったらトンダしっぺ返しがありますよ!と警告をしておきたいのである。何故文法的矛盾に見えるのだろうか?私はこれがトーラーが表現したかった事なのである。と理解しなければならないと思っている。先ず①神とは数の問題ではなかったのではないか!②神の様な意味合いに成る前段の過程的概念ではなかったのか?例えば「諸能力」の様な。
文法規範を冒して迄主張したかった事があると解ったのには理由がある。それはトーラー全体の構造的な所から判断された。物語りの構成がポジティブとネガティブの対比的な配置に先ず気が付いたからであった。これはトーラーが言葉以上に語っているぞと感じたからである。単語一つ一つにも疎かには出来ないが単語に加重しているのが構造であった。一度構造に気がつくとそこから得た視点を他の物語りに援用して見る見るうちに共通のテーマで見る事が出来ていったのである。

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