מבנה

連絡先⬛︎graphico_ss@icloud.comへご質問がありましたらこちらにメールを下さい!療養中の身なれば固定電話は簡単には出られませんので。何卒、お許しください。

2017年1月21日土曜日

私と言う歩み

私は旧約聖書=トーラーに真面に読み出して十年と少ししか経っていない。その内、つい数年前に脳卒中で倒れてその時初めてトーラーについて大いに気がつく事があり、それ以来バタバタと立て続けにトーラーの中に発見を続けたので、単なる個人的な思い付きの域を出ていないかも知れない。唯通常の宗教人と違うところは、既に子供の頃にクリスチャンとしての経験と、学生運動で左翼思想に馴染み、思想的な経験をタップリしていたので、宗教的熱狂と言うものからは距離を置いて観られる立場にいたのである。トーラーを観る角度側面の捉え方も自在に裏を返し表に返し観察する事が出来たのである。その下地があったからこそ多くの発見が出来たと思っている。この様な私に対して理解を差し向ける宗教的大衆は殆んどいない。宗教人でなくても日本では宗教的偏見は多くの大衆が持っている観念の型がある様だ。トーラーが如何に深度を掘り下げた書であるかを現在行なっている事であるから、普通の宗教的大衆には考え及ばない事なのであろう。私はこの歳になっても半世紀に及ぶ親友が居る。彼の応援無くして勇気が続かなかっただろう。一人ではこの孤独な営為を続けられなかった筈である。そして切り開いた地点は「人の可能な生きるとは何か」という事であった。トーラーはこれをテーマに考察していたのだと解ったのである。その答えはトーラーなりに出しているのであるが、決して間違ってはいないのである。キリスト教はそんな事には全く無関心なのだろう。トーラーが良い設問をしているのに、余所見をしてしまっているのである。トンチンカンな宗教である。キリスト教のトンチンカンさ加減は宗教を越えて、文化的波及力に乗って日本に漂い着いているのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿