מבנה

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2014年1月18日土曜日

  私の立ち位置、批判の視座(序)  

《序》今や私は生活習慣病の果てに肉体的なハンディキャップを得ました。人に助けてもらう事はあっても、自分が人を助ける事は殆んど出来無いに等しい状態でになっております。全く恥ずかしい限りです。従って、病気になる前の経験は僅かながら生かしつつ、現在の持て余し気味の時間を利用して死ぬ迄は某かのものは遺せるのではないかと思っています。 但し何を遺すかと言えば一番コストの掛からないと言うよりタダに等しいものしか残せませんー。早い話が私の咀嚼物を吐いて吐瀉物を押し付ける様なものですから、失礼とは思っていますが。私の研究対象のトーラーと言うのは再咀嚼しなければ解らない存在ですからその点、読者に失礼にならない様になっている筈です。このトーラーと言うのはどこ迄不親切な書物なのかとホトホト感心します。書いてある事は懇切に書いてある訳ではなく、一度誤読をしてしまえば後は迷路から抜け出すのはそう手易い事ではありません。一度思い込んだ自己の観念に逆に縛られて抜け出る事が出来ない仕掛けになっています。迷路とはトーラーの方にではなく、自己の方にあったと後で解るでしょう。トーラーの読み手は如何に先入観無しに読めるかに掛かっています。自己の作り上げた観念との闘い抜きには読み通す事は出来ないと思います。迷路に嵌まったまま読み通す位は出来ると思いますが、それでは得られるものは殆んどありません。本来意図されたものに遥かに及ばないものになると思いますし、迷路は狂信の道に繋がります。近現代が獲得した知見とは掛け離れた狂気の路を歩むしかありません。トーラーは問答、特に自己を掛けた問いかけ無くして成立しない書物です。問いかけとは自己に問いかけ、自己が答を出さなければ完結しない物語です。トーラーは読み手の具体的な行動を引き摺り出します。トーラーは子供騙しの物語と思って読むとそれっきりで終わってしまいますが、古代人の思いを共有すると途端に生き返ります。その為には少し工夫が必要ではありますが、古代人と共有出来る「生存」「充足的生存」と言うキーワードで読み手は我に返る筈です。このキーワードは古代から変わらぬ人間のテーマであるからです。従属的な読み方に終止符を打ち、自己の自由な生き方を保証される喜びに浸れる事をお約束出来ると思います。
❶当たり前の様な話ですが、救済を口にする人間へは「救済してあげます!」とか「私に付いて来なさい!」は極めて僭越な言い方なので、その言葉をそっくりお返し致します。それは無力に等しいと心得た方が良いです。救済にはならないからです。救済を求めている者は、自ら力を得なければならないのです。そう言う点は、トーラーはよく自覚していた様です。ユダヤ教の解釈でも、その様な見解があります。エジプトを脱出したヘブライ人が何故、直線距離にして僅かなパレスチナまで40年もの苦しい砂漠の旅を強いられたかの説明にヘブライ人がエジプトにおいて弱くなっていたからだとラビの中に説明する人がいます。ヘブライ人達が強くなる為にはそれだけの時間が必要だったと言う解釈です。救済には超越的な奇跡も必要のない事だったのです。確かに物語りの中には奇跡もありましたが、モーセが、奴隷に甘んじるヘブライ人達を連れ出すには色々方便が必要だったと言う事だろうと思います。
❷キリスト教の教会では神父、牧師達が既に解釈された事を大衆に教える立場をとりますが、ユダヤ教のラビは集まった会衆と自由討論、ディベートを通して会衆の脳を活性化しトレーニングし各々のオリジナルな考えを促します。各々の人は自らの思考を自由に、臆する事なく述べる事により新たな創造に寄与し、参加しているのです。トーラーに書かれている通りです。ユダヤ人は他人と同じ考えになる事を酷く嫌います。ユダヤ人どうしでも同じ事です。既に出来上がっているものだから、創造には値しないからです。ユダヤ教の宗教的行為はトーラーを思い出す事であれば 何でも祭事にすると言う事だと思います。毎週トーラーを54分割したものを一年(又は三年)掛けて読みます。一年は52週ありますから、54分割の内2つ余りますので、又閏年もありますから、或る週は2つのパラシャーの合併があります。この54分割したものを「今週のパラシャーParashat Hasshabua'」と言うのです。釈迦に説法の読者もいらっしゃるとは思いますが。ユダヤ教の宗教的行為についての私見を述べたつもりです。
❸ユダヤ教にもキリスト教にも様々なレベルでユニフォーマルな宗派があります。私は理解出来ない現象です。しかし、トーラーには危機的状況に対して集団的に脱出するモチーフが描かれている処が何カ所かありますので、その様な事と関係しているのかとは思いますが、具体的にどの様に危機感を持っているのかは解りません。宗教は或る意味人間に内在する危機感を表現しているものかも知れませんので、そう言う意味ではひとつの囲い込み、脱出の方法の表れかも知れません。私は個人の救済が遠い先に思ってしまうのです。従順に従うと言うことが救済にどう繋がるのか解らないのです。もし、傷ついた方がいらっしゃればご免蒙ります。  

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