「木を見て森を見ず」の喩え通り、トーラーの大森林の木の一つ一つに拘る事も大事な事です。木の一本一本を調べ、森を語る事も必要であると思います。しかし、森は木の単なる集合でしょうか?その様な考えもあると思います。しかし、この森は偶々木と木が寄り集まって出来たものでは無いらしいのです。全体として壮大な主張を持っているらしいのです。この大森林は頑固に譲れない主張を持っており、その主張を実現せんと各部分に工夫に工夫を凝らしているのです。この大森林に限っては壮大な植林計画に基づいて書かれたと考えられるのです。この大森林は全体が有機物のように隅から隅まで有機的に構成されていて恰も一人の人格の様です。一人の人格の如き働きに対してこれに抑も答えが用意されているものなのかを考えるべき事です。答えはこの巨大な存在との質疑応答、格闘がなければ生まれ出てくる事はあり得ません。森の中で迷いに迷った上で漸く得られる自分だけの答えです。一般解などありません。 こうして森を見たとしても森の繁みに隠れた渓谷が、水の流れが見えなくなっては、森が生きるための水源を見失う訳にも行きません。言語の繁みに隠れたものを眼を皿の様にして見なければ森を見て渓を見ずと言う事になりかねません。水脈を知る事も言葉の森を知る上で欠かせないと考えます。
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| 日本人はある時期から=西欧の文化が全てだと後追いを始めた時から=考える事を停止したのではないでしょうか?上手く行っている間は良かったのですが、答えは一つしかないとの悪い癖がついてしまいました。他人の答えは取捨選択すべきものです。残りは自分自ら解析、分析して、答えを探さなければならない筈です。宗教担当者がこの様な従属的思考方法に染まっているのであれば考え方の見直しが急務ではないでしょうか?解釈の偏向はいずれにしても衆人に不幸をもたらすしかありません。トーラーの登場人物達は従属的生き方を採ると不幸に陥り、主体的、自律的生き方を採ると神に祝福される或いは励まされる対象と成っていることを、忘れる訳には行きません。 |
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